<区内>でも<区外>でもない所。
そこが、秋せつらの目指す場所であった。

 <魔界都市>新宿にはありとあらゆるものがそろっているが、無いものがある。
……海だ。
<区内>では、そう認知されているし、地図にも載っていない。
しかし、海はあった。
新宿の地下に、しかるべき埠頭があり、そこへかの有名なディッケン船長が帰ってくる。



 新宿の海。
秋せつらはその上を歩いていた。
いくら目の良い者でも、そうとしか見えない。
しかし、彼は、正確には、糸の上を歩いていた。
千分の一ミクロンの細さの、特殊鋼で出来た糸の上を。
それが、彼が持つ、唯一の武器である。
その細さを侮ってはいけない。
彼の手にかかれば、ヤクザの首を刎ねることなど朝飯前なのだ。

 黒い海の上を、更に黒い若者が歩いて行く。
その様子を画家が目にしたならば、すぐさま、筆を執るだろう。
音楽家が見ていたら、相応しい楽器を奏でるだろう。
しかし、そんな試みは一切、無に還るに違いない。
何よりも美しいのは、秋せつらであると、知ってしまうから。
幸い、ここには自分の無力さに思い当たる無辜の芸術家は存在しないようだった。

 せつらが暗い海の中に、淡い光を見つけたのは、数時間歩いた後だった。
かつて、ここへ訪れた警官は「この光を見つけたときは、住人が鬼でもかまわない」
と思ったそうだが、果たして、せつらはそんなことを考えているのか。
茫洋とした表情からは何も読み取れなかった。
ただ一つ分かるのは、どこまでも広がる大海原にあっても、
秋せつらの美しさは変わらないということだけだ。











 結局、せつらは、光の元へ辿り着く為に、
更に1時間半の時間を費やすこととなった。
富士山と同じである。頂上が見えてからが長いのだ。

 そこには、何の前触れも無く、家があった。
家と呼ぶには、いささか広すぎるが、他に言いようも無い。
海の中にぼつんと、しかし、それなりの存在感が感じられる。
話には聞いたことがあるが、実際せつらがここへ来たのは今回が初めてだった。
何の用事もなく、中にいる人物が、自分を招き入れてくれるのか……、
いやそもそも、自分は、健康診断を受けに来たのだ。
理由ならある。
そう思って、せつらがドアをノックしようとしたとき、ドアは内側へと開いた。

 何の躊躇いも無く、せつらが、中に入ると、またドアは閉まっていった。
開いたのも、自動らしい。
無用心この上ないが、こんな海の真ん中へやってくる者もいないし、
もし、いたとしても、ご愁傷さまである。
もちろん、やってきた者が、である。ここの持ち主では断じて無い。

 一歩踏み入れてみると、中は静謐を具体化した様なものだった。
メフィスト病院の院長室を思わせる。
使用している人物が同一なのだから当たり前と言えば当たり前のことだ。





「メフィスト?」

 長い間、海風に当たっていた所為か、声が少し掠れた。

「メフィスト?いないの?」

 少し大きな声を出してみる。
すると、その声に応えるがごとく、突然、せつらの目の前にベットが現れた。
あるいは、ずっとその場所にあったのかもしれない。
ベッドは穏やかな山を描いていた。

「メフィスト?」

 顔まで見なくても、それが彼だとせつらは確信していた。

「死んでるのか?おい、返事位しろ」

 言いながら、せつらは顔の見える位置まで移動した。
鬼才の彫刻家が、生命と引き換えに彫ったような、鼻梁、
絹の様な黒髪、少女のそれよりも紅い唇。
紛れも無い。
眠る姿も美しい、ドクター・メフィストである。

「お前、今日が何の日だったか覚えてるよな。僕の健康診断日だ。
それをさぼって、自分はこんな所で、ぐーすかぴーすかかい。
僕は、お前を捜してくれなんていう依頼を受けるとは思わなかったよ。
何が<魔界医……」

 世にも美しい唇が、そっと、せつらの言葉を奪った。
世界中の誰もが、その瞬間を留めて置きたいと、そう願うに違いない。
ただ、こんな海の中では、二人を見るのは、なんとも奇妙な魚くらいだった。
それが、この二人には相応しいのかもしれない。

「……なに……」

 不意を突かれたせつらは、目の前の人物を見る。

「口付けという」

 まるで、患者に病名を告げるように、メフィストが答えた。
録音できたならば、国さえ売ると宣言した国王もいたという、美しい声で。

「そんなのは分かってる……分かってる?いや、分からない。なんで……」

「分からないのならばいい。私は困らん」

 至極実直に告げたメフィストは、
未だベッドに上半身を起こしただけであった。

「不意打ちは……よくない」

「言えば、君は拒むだろう?」

「あっ……当たり前だ」

 また、声が掠れた。
メフィストが繊手をせつらの首へと伸ばした。
さらり、となでる。

「海風に当たりすぎたな」

「そうだよ。お前を捜しにはるばる来たんだ。
なのに、なんでこんな仕打ちを受けなければならないんだ」

 せつらは喚くが、メフィストはどこ吹く風である。
いや、一見そう見える。
しかし……違う。せつらはそう判断を下した。
そう長くは無いが、どんな他人よりも、濃密な時間を過ごしてきたのだ。

「何があった?死人でもでたか?」

 なんでもない風に聞いてみる。
しかし、せつらの問いに、メフィストは美しい眉を顰めた。
常人では分からない程の些細な動きではあったが。

「いつもだ。私にも死んだ者を生き返らせることはできない」

 冷ややかな口調。
何かを隠している。
でも、そんなことを調べにやって来た訳ではない、とせつらは思い当たる。

「帰らないの、病院。心配してたよ、みんな」





 口にした途端、せつらは寒気を感じた。
それが、目の前に座る人物の所為だと悟るのに、
そう長い時間は要しなかった。
つまり、メフィストは明らかに、怒りを滲ませていたのだ。















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