「みんな、とはどういう定義かね?
みんな、とは誰も、と同義でない範囲のみんなという意味か?
私はそうとは思わん。私は、もう3週間近く、この場所にいる。誰も尋ねては来なかった。
何故かね?それは、私がいなくても、病院はきちんと運営されているということだ。
皮肉なことに、私の作った、ダミーによってな。
そして、更に、<新宿>は動いていたということだ。何の異常事態もなく。
だから、誰も私のことなど気にも掛けなかった。 そうではないのか?」
メフィストは、せつらに訊ねた。
「何を熱くなってるんだよ。そりゃ、<新宿>は動くさ。
僕がいなくても、お前がいなくても。
病院のことはよく分からないけれど、でも、心配だから僕に依頼したんだろ」
背中を冷たい汗が滑り落ちる感覚がする。
けれど、せつらは言葉を続けた。
「今更、反抗期のガキみたいに、“僕がいてもいなくても世界は変わらない。
だから、死んでやる”なんて言い出すんじゃないだろうね。
やめてくれよ、メフィスト」
部屋の温度はさして変わらなかった。
最初からこの温度ではなかったかと思わせる位、部屋の隅々まで、冷ややかな空気が流れていた。
「メフィスト。お前が誰からも必要とされていないなんて、そんなのは嘘だ。
少なくとも、僕は今日、お前に健康診断されに来たんだ」
溜息を吐く音がする。
甘い香りがせつらの鼻孔にも届く。
それがメフィストの吐息の香りだと気づく前にメフィストが口を開いた。
「時々、酷く感傷的になる。
何年周期だかは私にも分からんが、確かに、何度か経験はした。
せつら、君の言っている事は分かっている。私も今更、そんなことを考えたりはしない。
患者は毎日の様に私を求めてやってくる、それは事実だ。
ただ……」
珍しく言い淀む、メフィストを、せつらは目で後押ししてやる。
「これも、酷く感傷的な話ではあるが……嫌になるのだよ。
自分の行っていることが、分からなくなるとでも言えばいいのか。
患者は確かに私を求めてやってくる。しかし、病が治れば去っていく。
そして、ある意味幸せな私の元患者は、私の預かり知らぬ所で息を引き取る。
いくら、私が手を尽くそうとも、最後に必ず患者は死ぬのだ」
本当に、酷く感傷的だ、とせつらは考える。
第一、命を延ばしてやるのが医者の仕事である。
誰も永遠の命をくれなどとメフィストには頼まない。
そんなことは分かっているはずなのだ。
しかし、一方で、現状を見つめてみると、少々、同情の念もある。
この医者は、せつらとであってから、年を全く取っていない。
年月は経つ。
だから理論的には年は取っているのだが、出会った頃の風貌は、今も変わらないのだ。
せつらは、メフィストが一体、どれくらいの年月を過ごしてきたのかを正確には知らないが、
これからも年を取らずにいたとしたら、いずれこの医者は……
「君も例外ではあるまい」
せつらの死も経験することになる。
「そう考えると、何もかもが空しくなる。私がいなくても、人は生き、死んでゆく」
普通の人間であるせつらには理解し難い感情だ。
吸血鬼の若き惣領、夜香ならば、あるいは理解出来るかもしれない。
しかし、彼には、同じ吸血鬼という仲間がいる。
本当の意味での理解には及べないのではないか。
「メフィスト」
せつらが呼びかけると、ゆっくりとメフィストは顔を上げた。
その顔に、ゆっくりと、唇を近づけていく。
「キスはしないよ。良く聞け」
同意を示すように、メフィストの瞼が伏せられた。
長い睫毛が頬に影を落とす。
今度はせつらが溜息を吐く番だった。
「どんな言葉を僕が言っても、結局はお前は一人で立ち上がる。
それは分かっている。
だから、慰めたり、励ましたりはしない。
ただ……ただね、一言いうなら、『私』じゃなくて、『僕』が思うにね、お前のことは、嫌いじゃない。
どっちかっていうと、一緒にいて自然だと思うし、楽しい。
だから、……その……我儘だけど、……僕が逢いに行った時には、
そこに……いて欲しいよ、メフィスト」
言った途端、甘い香りが近付き、キスをされた。
せつらはあわてて身を引くが、メフィストの腕が先に腰に回った。
「し、しないって言ったのに!」
そのまま、メフィストの腕の中に納まりながらも、せつらは喚いた。
しかし、固く抱きしめられてしまい、せつらは仕方ないと肩の力を落とした。
いつだって、ギブアンドテイクでやってきた。
借りは必ず返される。
「君がしないという意思を言っただけで、私は何も言ってない」
腰の辺りでメフィストの声がする。
奇妙な感じだ、と思いながら、せつらは唇を尖らせる。
「屁理屈」
「何とでも言いたまえ」
まだ、口調はどことなく硬いが、これなら大丈夫だろう。
せつらは判断して、頭を切り替える。
「とんちんかん」
「エロオヤジ」
「藪医者」
「約束破り」
「嘘吐き」
等々、せつらの口から出る言葉をメフィストは本当に甘んじて受け止めた。
せつらの腰に腕を回し、身動き一つしないその様子は、
どことなく、神に縋る敬虔な清教徒の様だった。
だから、せつらも、軽く流してやることにする。
せつらに向かって小さく呟かれた「ありがとう」の言葉を。
いずみ遊 2002年3月18日
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