雨 *いずみ遊*












 雨。
新宿は雨だった
新宿区役所跡地に建てられた私立病院は、雨だろうと嵐だろうと人が途絶えることは無い。
多くは列記とした病人だが、中には何の病も患っては居ないのにわざわざやって来る者もいる。
その多くは新宿観光に来た<区外>の人間なのだが、曰く、「院長を一目見ようと思って」
何も知らない者が聞けば、何を馬鹿げたことをと鼻で嗤うだけだろうが、区民は彼の存在を知っている。
”世界一美しいという形容は彼の為だけに存在するのだ”
一介の町医者であるこの病院の院長をちらりとでも、――遠目から後姿を見ただけの者ですら言う。





 十数年前、新宿区内のみを突然襲った大地震、<魔震>は、この地を<魔界>へと変えた。
突然変異で生まれた奇怪な生物が街を往来し、人間までも自らの身体を改造し
未知の生物へと生まれ変わった。
そして当然の様に、今までには無かった病や怪我を負う者も格段に増えたのだ。
その病や怪我にいち早く対応したのが、今や、区民なら、赤子でもその名を知っている、
とまで言われるメフィスト病院、そして、その院長である。
区民は、彼を、感謝と、そして明らかな畏怖を込めて、こう呼ぶ。
ドクター・メフィスト、<魔界医師>と。











「メフィストいる?」

 メフィスト病院の受付で、そんな問いが発せられると、
ロビーで待っていた患者及び観光客何人かが声を上げた。
この病院の院長を呼び捨てする人物への驚愕と、その問いかけの声の美しさに。
受付を振り返った者の半数は、その人物の後姿だけで頬を赤らめ、失神する者もいた。
むべなるかな。
病人には到底耐えられるものではない。
黒いインバネスに、雨の雫も恐れ多くて跳ねる事はなかったのだろう。
闇より黒い人、秋せつら。彼だったのである。

「院長室かな?」

 ここの院長と並んで賞せられるその美しさ。
院長で馴れている筈のメフィスト病院看護婦でさえ、
暫く目の前に霞が掛かるのは仕方の無いことで。
返答の無いことをどう受け取ったのか、せつらは通り過ぎ様としたのだが、

「特別応対室へどうぞ」

 流石、メフィスト病院の看護婦。
声はすんなりと出た。
せつらは茫洋とした中に僅かな疑問符を覗かせながら、指示どおり特別応対室へと足を向けた。








「あの、僕、健康診断で来たんですけど」

 出されたオレンジジュースに口を付けてから、せつらは茫洋と尋ねた。
目の前に座るのは、この病院の副院長と婦長であった。
どちらも、深刻げな顔をしているのに対し、せつらはのほほんである。
しかし、そんなことにはもう慣れてしまっているのか、それともそれがせつらの凄い所なのか、
特に怒るでもなく、副院長が口を開いた。

「秋さんに是非頼みたいことがあるのです」

「はぁ」

 そのどことなく親しみやすそうな秋せつらの雰囲気が、
院長とせつらを僅差でランク分けする要因だと知っても、せつらは嫌そうに眉を顰めるだけだろう。
せつらが、再びジュースに口をつけるのを待って、副院長が話を再開する。

「院長を、ドクター・メフィストを捜していただきたいのです」










 話はこうだった。
院長が病院へ帰って来ないのだ。
もちろん、一日位帰ってこない程度で、病院側が騒ぐはずもない。
あの院長……つまり秋せつらでさえも家を知ることの出来なかった院長
――院長室を自分の家だとした院長――が何の連絡も無く、3週間も病院へ帰って来ないのだ。
こんなことは病院始まって以来のことだった。
吸血鬼事件の時も、あちら側のものがやってきた時も必ず帰って来たのに・・・。

 けれど、と婦長は副院長の話に続けてこう言った。

「院長は、今もいらっしゃるのです。この病院に。
ただ、本当の院長は、帰っていらっしゃらないのです」

 もし一般人が聞けば、何を言っているんだという話だが、
ここは<魔界都市>であり、院長は<魔界医師>であり、それを聞く者は<魔人>であった。
「ああ、それはダミーでしょう」との指摘をせつらはしなかった。
言わなくとも、メフィスト病院の副院長と婦長が
本物とダミーのドクター・メフィストを見分けられることは承知している。
メフィストの人間の物と思えない麗しい繊手から生み出される精巧なダミーは
各病室の見回りや、往診に使われている。
多くの患者はドクター・メフィストを見るだけで、病気の改善が認められるため、
ダミーは多用されているようだ。
無論、別の場面でも使用されることが多いのだが。








「メフィストの奴、迷子にでもなったか?」

 メフィスト病院の特別室を出たせつらはそう毒づいた。
厭味を言っても、「良家のお坊ちゃん」の感が抜けないのは致し方ない。
まぁ、ドクター・メフィストの悪口を区内で堂々と言える人間が、
ただの「お坊ちゃん」のはずがないのだが。

「冷たくしすぎたかな。糸でも巻きつけておけば良かった」

本業として西新宿で老舗のせんべい屋を営んでいる秋せつらは
副業として人捜し屋―マン・サーチャー―をしていた。
だから、院長を捜してくれなどという依頼をされるのだ。

 この街で人捜しなどというのはとてつもなく大変な仕事である。
当然、怪我など日常茶飯事である。
そこで、メフィストは秋せつらに対し、一ヶ月に二回の定期健康診断を無料で、
しかも自ら行うことを申し出た。
上着を脱いだせつらの白く、滑らかな肌に注がれるメフィストの視線は、淫靡な
――それでいて決して秀麗さを失わないのがドクター・メフィストである――ものであり、
不埒な言葉も囁かれるが、それさえかわせれば、ただより安い物はない。
これは素晴らしい申し出だったので、せつらは月に二回、メフィスト病院に通う。

 秋せつらはドクター・メフィストの想い人である、とは<区内>に実しやかに流れる噂であるが、
メフィストはそれを公言するのを憚からない。
せつらは勿論のごとく、その気はない。
それで、先程の「冷たくしすぎたかな」という台詞が出てくるのだ。
自分の愛人候補であるメフィストの肩書きを、愛人に格上げする気は毛頭なかったが、
使える物はとことん使うせつらにとって、メフィストを切るのはあまり得策ではなかった。





「さて、どうするか。……やはり、ぶぅか?」

 嫌そうに呟いたが、決めたら即断実行が秋せつらのモットーである。
インバネスの内側から携帯電話を取り出すと、太った情報屋へ電話を掛けた。

「外谷です」

 コール3回。新宿一と称される情報屋が体同様、太った声で応対した。

「ちょっと聞きたいことがある」

「毎度」

 にやりと、河馬が笑うのをせつらは想像した。
既に、いくら搾り取れるのか皮算用を始めているのかもしれない。
何せ、「でぶ、けち、ぶう」の外谷良子である。

「ドクター・メフィストについて」

「それは、あんたが一番良く知ってるじゃないの。それじゃ。ぶぅ」

「ちょっと、待て」

 めずらしくせつらが焦ったので、どうやら回線は切れなかったらしい。

「なんだわさ」

「メフィストの奴が、<区内>にいるかどうか知りたいんだ」

「ふむ。ちょっと待ちな」

 粋な言葉を発し、電話は「小さな世界」を流し始めた。
あまりのギャップに思わず噴出しそうになるせつらを、
通りすがりの女が見て、二人そろって、恍惚の声を上げた。

「いることにはいるわさ。ただ……」

 女情報屋が言い淀むのに、せつらは言葉を続けてやった。

「数が足りない?」

不気味な話だ。

「……そう」

「その、足りない奴がどこへいるかとかは……」

「別料金」

 デブ女は根性までデブである。

「わかったよ。それで?」

「ぐふふ、毎度。<区外>ではないけれど、<区内>でもないところよ」

 謎掛けのような言葉を聞いても、せつらの表情は、
茫洋としたまま動かなかった。

「ふうん、ありがとう」

「ふふん、いいだわさ。ぶぅ」









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