何処までも暗く、紅く、
 堕ちる所まで、堕ちてしまえ、
 這い上がることも出来ぬ深遠へと堕ちてしまえ……――
 その抗いがたい運命に、身を投じる前にどうしても、その白い光が欲しかった

 赤子の様に泣き叫び、強請ることはしないが、力ならば有り余る程あるのだから









 sign *いずみ遊*









 その場所は常に静寂で占められていた。
青い光が何処からともなく降り注ぎ、一点の汚れも見つからぬ、見つかってはならぬ豪奢を尽くした一室。
彼は時間の感覚すら無くなってしまいそうなその部屋で、これ以上の美は無いだろうと思われる美と対峙していた。

「お加減は如何ですか、ドクター?」

 彼は至極にこやかに問うた。
爪を隠し忍び寄る猫の様に。
それに対し、医師は冷ややかな視線を送った。
医師は自分の患者と、目下、彼の敵である秋、という姓を持った男以外に興味を示さないのだった。

「君のお陰ですこぶる快調だ」

「それは良かった」

 真弓という女の腹に吸い込まれ、心神喪失状態になった医師を
彼が此処まで送り届けたのは、半日程前の出来事だった。
今の医師は、あれが全て白昼夢であったのではないかと思わせる冷たく鋭利な雰囲気を保っている。
彼も別にそれを驚いたりしない。

「何の用かね。私が君にすべきことは何も無いが」

 彼は薄く笑った。
そうだろう。
最早これ以上は<魔界医師>と雖も手出しをすることは出来ぬ。
<魔界都市>の、延いては人類の進化を賭けた戦いの舞台に医師は招かれてはいないのだから。

「少しばかり、お力を頂きたいと思いまして」

 そう言って、彼は黒檀の大デスクに近付いた。
何を感じたのか、医師は椅子を引いて、立ち上がった。
急いでいるとも思えない軽やかな動作に一瞬見惚れた彼の手元が僅かにずれた。
微かに香る、甘い香り。

「何の真似かな。この病院で殺傷を行う意味を分かってのことだろうが」

 医師の背筋も凍るような言葉も、彼には届かなかった。
白皙の頬を伝う紅い糸。
彼が放った不可視の武器にも、等しく同じものが流れている。

「先生は動けない。ご存知でしょう?ぼくの力は進化し続ける。
”封印”と交わった後も、未だ」

 机の周囲をゆっくりと、獲物を捕えたライオンの如く歩き、彼は医師の前に立った。
そして、医師の頬を染める血を指で掬い取る。
手足を妖糸で絡め取られた医師は、無感情にその手の動きを見ていた。

「成る程……<魔界医師>の血はこれ程甘いのですね」

人差し指を口に含んだ彼は、妖艶に笑った。

「舐めてみます?」

「何が目的かね。私はこれから往診に出かけなければならない」

「そんな雑務など、明日になれば何の意味もなくなりますよ」

 なおも笑みを絶やさぬ彼の瞳に何を読み取ったのか、
医師はそれ以上問いを重ねはしなかった。






 無残に切り裂かれたケープが足元を飾る。
両手を括り、カーテンレールに引っ掛けられた糸は、
医師の手首に幾つもの傷を付け、その血は腕を汚していた。

「意外だな……」

医師の首筋に舌を這わせながら彼は呟いた。

「もっと手酷く扱われていると思ったら、あいつは先生に傷一つ付けていないんですね。
……いや、ぼくとの戦いで先生を抱く暇すら無かったのか」

 そう言って白い肌に散らされていく所有印。
薄い肌は、吸えば直ぐに鬱血し、紅く染まる。
医師は我関せず、と瞳を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
けれど、彼は知っていた。
その息が、その鼓動が、常よりも速く熱いことを。

「ぼくはあなたを見るとめちゃくちゃに汚したくなる。
いや、大多数の人間がそう思うでしょう。
この取り澄ました顔を、快感に噎び泣かしてみたい。
白くくすみの無い肌を傷つけ、血を流させてみたい。
あなたの躯が己の精液でべとべとに濡れるところを見てみたい……」

「悪趣味だな」

「あいつだって、似たようなことを思いながらあなたを抱いているんですよ、
先生。
あんな狂気の目をした男が、天使だなど、誰が思うでしょう」

 医師は答えなかった。
それを気にせず、彼は更に露骨な行為を始めた。
全てが彼を味方するように、院長室の扉を叩くものは誰一人居なかった。






「久々に受け入れたのが、あいつではなくぼくなのが悔しいですか?
それとも、あいつ以外の男に陵辱されるのは、気持ちいい?」

 自分の腕に唇を押し付けて、何かを耐える医師をうっとりと眺めながら
彼はゆるりと腰を動かした。
相手の抵抗が無いとは言え、これは立派な強姦であり、
従って彼には、医師の躯に与えられるものが苦痛であろうと快楽であろうとどちらでも良かった。

「ああ、……ドクター……。
素敵ですよ」

 自分を愛している者以外の男根を受け入れ、貪欲に更に奥へと誘う内壁。
心と体は違うと分かってはいても、彼の嗜虐心は十分に満たされていた。
存在を主張しはじめた医師のものを手に取り、
先端から流れる先走りの液を全体に塗り込めるようにして梳いてやると、医師の腕が激しく揺れた。
強く引かれた妖糸が、また一つ、医師の手に傷を増やした。

「……っ……」

「おや、滑りがいいと思っていたら、切れていたみたいですね……」

 そう。
そうして、傷つけばいい。
彼は笑いが止められなくなっていた。
その先で苦しむ彼の幼馴染を思うと、嬉しくてたまらない。
何もかも、壊れてしまえばいいのだ。

 本音を言えば、こんなちっぽけな街など、どうなろうと彼は構わなかった。
誰が覇権を握ろうと、それは一時のこと。
全ては土に戻るのだ。
ただ、彼は生きていたかった。
これから先、仮令、数十年の命しか無いとしても、その過程を思うといとおしくてならなかった。

「友達甲斐の無いあいつは、ぼくのことを忘れるかもしれない。
でも、先生。あなただけは決して忘れない。
こんな屈辱を与えたぼくを、あなたは仮令死した後も、永劫呪うでしょう」

 ひっそりと、自らに言い聞かせるように。

「あなたが欲しかったのです。どういう形であれ」

 彼は最奥に自身を突き入れた。






 最後の最後まで全ての感情を仕舞い込んでいた医師は、
妖糸を断ち切ると共に、意識を失って彼の腕の中に倒れこんだ。






「強情な人だ。あいつの前でないと、啼けないとでも?」

 自らが切り裂いたケープを形だけ医師に掛けながら、彼は自虐的に頬を歪めた。
暫く目を開けまいと思っていた医師が、物憂げに数度瞬きをし目の前にしゃがみこんだ彼を見た。

「そうだ」

 声がやや掠れている。
それが情事の雰囲気を留め、酷く艶美だ。
彼は再び手を伸ばしそうになった自分に苦笑した。

「……そうですか。でも、躯は正直でしたよ」

 彼は医師の髪を一房、手にとって口付けた。
それを忌々しげに横目で見て、医師は自らの手首に指を這わせた。
流れ続けていた血が、瞬時に止まる。
傷口は、きっと目を凝らしても見ることが出来ないだろう。

「……せつらの方が良かった」

「それは、あいつが本性を現していないからですよ。
誰だって、優しく抱くことなど簡単に出来ますからね」

 彼は手に取った髪を妖糸で切り取り、立ち上がった。

「では」

 彼は黒いインバネスを翻した。
医師はその後姿を暫し見てから、そっと溜息を吐いた。
それは、相手への憎しみでもなく、勿論愛しさでもなく、言うなれば最も医師らしい感情に彩られていた。
しかし、彼は足を止めなかった。
そして、扉は彼を拒みはしなかった。






 音も無く扉が閉じた後も、暫く医師は壁に体重を預けたまま微動だにしなかった。
冷たい壁が火照った躯をだんだんと鎮めていく。
結局、医師は自らの熱を彼の前で吐き出すことをしなかったのだ。
意識が、未だはっきりしない。
このままもう少し……――
しかし、医師は痛みと悦びとを同等に与えられ、感覚が麻痺していることを失念していた。
気が付いた時、既に重い扉は開かれていた。

「……随分、面白い遊びをしている」

 声を聞かなくとも、医師にはそれが誰だか分かっていた。
医師の許しなくこの部屋に到達できるものはそういない。
黒衣の青年は、壁に半身を凭れかけ、射る様な目つきで医師を見つめた。

「おまえが誘ったのか?
……それにしては酷いなりだな。血が流れすぎだ。
ふん、カーテンレールが壊れかけだぞ、藪」

 彼と同じ妖糸で、青年は医師に掛けられたケープを剥いだ。
そして、ゆったりとした動作で床に座り込む。

「……許す、許さないの問題外だな」

 医師の躯を一瞥して、そして、秘処に手を伸ばした。
指の先に伝わる緊張とどろりと流れ出す他人の精液に、その青年ははっきりと嫌悪感を示した。

「……せつ……ら……」

 そのままどんどんと奥へと侵入していく青年の指に、医師はコートの裾を掴んだ。
手に、感覚が戻らない。

「藪医者め。
自分の身くらい、自分で守れ」

 その言葉とは裏腹に、青年は中に留まったままの液体を優しく掻き出していた。
それに血が混じっているのを見て、少し痛々しげに眉を顰めて。











 何処までも暗く、紅く、
 堕ちる所まで、堕ちてしまえ、
 這い上がることも出来ぬ深遠へと堕ちてしまえ……――
 その抗いがたい運命に、身を投じる前にどうしても、その白い光が欲しかった
 
 仮令、明日、命が絶たれたとしても
 あいつが手にした光に、一点の穢れを刻めたならば
 生きていた証に、出来るだろうから















いずみ遊  2003年2月21日

ほんのり続き→風花




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