何処まで続くか分からぬ暗闇の中を、黒衣の青年が歩いていた。
正確に言えば、彼は空中に浮いていたのだが、確かに彼は空中を何の苦もなく歩いていた。
――秋せつら。
<新宿>が生んだ魔人である。

 日の当たらない亀裂では、流石にトリカブトも生えてはいなかった。
しかし、何処に水溜りがあるとも限らない。
触れれば最後、地上に出た途端、トリカブトだらけになってしまう。

「竜、ねぇ……」

 不可視の糸が何かに触れたのか、せつらの右手が細かな動作を繰り返す。

「どう考えてみても、亀なんだけど。
ただし、首は九本、頭は14個の……」

 まぁ、悩んでいても仕方ない、とせつらは自らが放った糸の方へと跳躍した。
 予備動作がないにもかかわらず、彼は100メートル先、
およそ5000メートル下へと飛んで……いや、落ちていた。
黒いコートが風に広がり、まるで鳥の様だ。
見事、体操のオリンピック選手もかくは、と思える着地を決め、
せつらは、亀裂の底に足をつけた。

「……竜……ねぇ……」

 もう一度呟いて、目の前に横たわっている巨大亀の死骸を見た。
――光などないのだから、直接見ることは不可能であるが。
確かにせつらが言ったように、亀の首は九本。
そこから14個の頭が生え、更に九本のうち一本の首は、
火で焼かれたような跡があり、頭はついてなかった。

「話の通り……だけど」

 亀なのが余程気に入らないのか、大分考えた後、せつらは徐に自分の上着を脱いだ。
そして、血溜まりへとつける。

「完了」

 そして、はるか上空を見上げた。
空は見えない。けれど、何かがいる。

「参ったなぁ……」

 あまり参って居なさそうに呟いて、せつらは跳んだ。
今度は後方に下がりながら、上へと。
生き物の血はあらゆる魔物を引き付ける。
けれど、そこにいるのは、その様な類のものではなかった。

 ひゅん、と空を切る音がして、せつらの頬を何かが掠めて行く。
秋せつらの糸に捕獲されなかったもの。
それだけで<区民>の背に冷たい汗が流れそうな事態ではある。
本人はいたって、のほほん、ではあったが。

「噂に聞く毒矢かな」

 果たしてあの亀に毒などあるのかどうか。
せつらは敢えて応戦することを、避け、只管に地上を目指した。
幾度か矢が当たりかけたが、寸でのところで全て、亀裂の底へと返されて行った。

 頭上から明るい光が射してくる。
地上が近い。
せつらが更に糸を遠くへと伸ばそうとした時、ありえないことが起こった。
せつらの顔に、驚愕の色が流れたのだ。
一瞬、眩さに閉じ、次の瞬間開いた目の前にいたのだ。
彼が。

「ヘラクレス……」

 せつらが呟いたのと同時に、彼の弓が唸った。
鈍い音がして、せつらの左胸から、無粋な棒が突き出していた。
――まさかそんな。しかし、この至近距離ならば。
彼は血を、まるで薔薇の花びらのように撒き散らしながら、再び
亀裂の底へと落ちていくせつらを無感情に見つめていた。

 せつらが亀裂の底に激突した音を聞いた、とでも言うように何かに頷くと、
彼はようやく、背後を振り返った。

「これで満足かしら?」

 予想外の女の声にも、彼は動じなかった。

「何だか最後は配役がばらばらだけれど、それも仕方ないわね」

 女――シビウは、自分の手に持った黒いコートを彼に差し出した。
そのコートは、明らかにせつらのものであった。
亀の血とせつら自身の血で、艶かしく光っている。
彼は微かに躊躇した後、シビウからコートを受け取った。

「行きなさい、ヘラクレス。死に場所くらいは、選ばせてあげるわ」


















「トリカブトの毒が回ったまま動き続けるから
この様に無様なことになる」

 亀裂の奥底で、落下してくるせつらを針金で受け止めたメフィストは溜息を吐いた。
せつらの胸から矢は抜かれ、傷跡ももはや残ってはいなかった。
流石は<魔界医師>、と呟いてくれる者は残念なことにこの亀裂の中には無い。

「上はシビウが何とかしてくれているだろう。
立てるかね?」

 先程よりもさらに青ざめた顔で、せつらはメフィストを睨んだ。

「藪っ……早く解毒しろ……」

「……そんなことを言っても良いのかね」

 気配からメフィストが何か自分にとって良からぬことを考えていると
悟ったせつらは、どうにかして距離をとろうとしたが、既に全身に巡った毒がそれを許さなかった。

「おい、メフィスト」

 珍しく切迫した声で、せつらが声を掛ける。
が、返答は勿論無い。

「ここが何処だか分かってるのか?」

 まるでそれが当然のこととでも言うように顔を近づけてくる医師の胸を全力で押し返してみるが、
暖簾に腕押し、柳に風。
意味は全く違うのに、まさに文字通りとしか思えない。

「メフィ、切るぞ……」

「治療だ」

 たった一言。
二人の境が無くなった。

 何時、妖物がやってくるとも知れぬ、奥深い亀裂の中で、世にも美しい口付けが交わされる。

「二度目は無い」

 メフィストはそれを、笑みで返した。



















『結局、何だったのさ。トリカブトは一瞬にして消えちまったよ。
あんたがまた何かやったのね。
ところで、……ねぇ、区からがっぽりもらうんでしょう?
……少しは分けてくれてもバチは
当たらないと思うんだけど。……ふん、ケチ。
おまえなんか今度あったら、両手足縛って丸焼きにしてくれる。ぶぅ』

















 平穏を取り戻した<新宿>は全てを忘れ去った様に動き出した。
何時の間にかメフィスト病院に入院していた区長に逢った後、
せつらはこれ以上何もしないなら、という条件で院長室に上がった。

「で、結局、あれは今度建設されるテーマパークの宣伝?」

 ふかふかのソファーに疲れた躯を鎮めて、コーヒーを啜りながら
どうでもよさそうにせつらは訊ねた。

「ギリシア神話が現代に蘇っても、<新宿>ならばありえる、という話だ」

 勇者ヘラクレスが、<新宿>で12の功業を成し遂げただけのこと。
メフィストは大したこともあるまいと片付けた。

「デイアネイラの愛によってヘラクレスは死んだ、か」

 ――ヘラクレスは、9つの頭をもち、首を切断されてもすぐに新しい頭が2つ生えてくる竜
ヒュドラを倒した。
この時、ヒュドラの血に矢を浸し、毒矢を作ったという。

 後に自分の妻を攫われたヘラクレスはその毒矢を用いて敵を殺した。
瀕死の敵は、ヘラクレスの妻に「私の血は愛の妙薬だ」と嘘を吐く。
敵は毒矢にやられたのだからその血も猛毒となっているのだが、
妻は敵の話を信じ、ヘラクレスへ血の沁み込んだ衣を贈ってしまう。
何も知らずそれを着たヘラクレスは、自らが過去に殺したヒュドラの毒にやられて死んでしまう、
というのがギリシア神話での話だ。

「男の風上にも置けぬ英雄だな」

 暗闇で病人に猥褻行為を働いたお前の方がよっぽどだと言おうとしたが、
藪蛇になりそうなので、せつらは代わりに違う言葉を吐いた。

「ところで、僕のコート、どうなっちゃったのかなぁ」

 するとメフィストは数秒、何も無い空中を見上げ、そして微笑んだ。

「用意させていただこう」

「今の間は何だよ、メフィストっ!」

「いや、大した問題は無い……」

「その歯切れの悪さ……おまえ、何か隠してないか?!」

「コーヒーの御代りはいかがかね」

「おい」

「……」

「な、っ……何もしないって言ったじゃ……っ」

「さて、診察にでも……」









 神話の中の人物であるヘラクレスが消滅したとしても、
せつらのコートがこの世から消えるわけが無い。
そのコートをシビウが持ち帰ったのか否か。
持ち帰ったとすれば、何のために……?



……流石に<魔界医師>にもそこまでは考えが及ばなかった。







――予兆、未だ消えず。






















一言BBS、3535キリ。
暁白叡さんより「深刻でかつ何処か甘いというか切ないというか。そんな黒白」
何故かうちのメフィはキスをした途端、強くなります。  いずみ遊  2003年1月26日




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