口付けは花の蜜の甘さに等しく
触れ合う熱は少し冷めたコーヒーと等しく
―――ただ、二度と再び交わることはない











 Crazy *いずみ遊*








「もっと真面目に考えてみたらどうだ」

 のんびりと、何処か太平楽に諭す声がソファーの方向からした。

「君には一生涯言われたくはなかった言葉だ」

 これ以上無いと言うほどに真面目くさった顔をして医師は答えた。
院長室は常に無いほど穏やかだった。
――ある予兆を孕んでなおも。

「僕はせんべい屋だ。お前は医者だ。
どちらが問題を考えるべきかなど、分かりきったことじゃないか」

「確かに私は医師で、しかも君は目下珍しくも私の患者だ」

 医師は面白くもなさそうに言った。
眼は、常に高分子ポログラフィーに映し出されるグラフへと向けられている。
その視線に一秒でも当てられたら――人々の妖しい欲望に火をつけるのは容易いだろう。

「お前の患者だなんて……ああ、気分が悪くなってきた」

 せんべい屋はわざとらしくソファーにごろりと横になった。

「それは毒が回っている証拠だ」

 にべもない返答に、流石のせんべい屋も少し身の危険を感じたのか
直ぐに身を起こし、医師の白い後姿を見た。

「で、何の毒?」

「実に興味深い」

「だから、何?」

「ケルベロスの唾液だ」

 せつらはメフィストを暫し凝視した。
いつもの、のほほん、に少し翳りが差す。
メフィストはその様子に眼を細め、それからちらりとブラインドの外に広がる<新宿>の街を見た。

「一時間ほど前、確かにわか雨があった」

 空は依然として、少し曇っている。

「日光が射せばどうなる?」

 せつらはゆっくりとソファーから立ち上がった。
黒猫のようにしなやかに。

「一斉に発芽するだろうな。地面といわず、アスファルトにも体内にも……。
トリカブト……いや、もしくは毒のみが」

 メフィストにも、それは推測の域を出ないものだったらしいが、
次の瞬間、せつらは黒いコートを翻していた。
全ての空気が一瞬にして変わる。

「依頼人はお前だ、メフィスト。余計な連絡はいらない。
もう直ぐ、雲が切れる。
一人も死者など出すな。
お前と……――私の名に掛けても」

 せつらの残した最後の言葉に軽く眉を上げ、メフィストは受話器を取った。
せつらの後姿はもはや分厚いドアが隔ててしまっている。
相手に寄せる信頼感だと表現しようとも、
どちらもそれを納得するような人物ではなかった。

 ダイヤルを押しながら、メフィストは次に連絡をすべき相手へと考えを巡らせていた。
新宿中でこれから大発生するに違いないトリカブトについて
各行政機関やテレビ局、毒物関連の専門家、そして、病院に知らせて回らねばならない。
――あくまで、知らせるだけだ。
日が射せば、メフィスト病院には「自家中毒」患者が山のように搬送されてくる。
対処方法など、己で考えろ。














「ご覧下さい、薄っすらと雲が明かりを帯びてきました。
<新宿>が<区外>から切り離されて以降、こんな大規模な凶悪犯罪があったでしょうか。
地獄の番犬、ケルベロス。
ギリシア神話に詳しい、T大学の上野教授によりますと、
ヘラクラスに捕えられ、初めて見る太陽に吠えたケルベロスの口から零れた唾液が、
猛毒を持つトリカブトになったということです。
こうして地上を見てみますと、人通りは少なく、時折通るのは救急車やパトカーといった有様です。
こんな<新宿>を未だかつて見たことがありますでしょうか……」

 ヘリコプターで上空からレポートする女性レポーターの声を聞きながら、
<新宿>区長の梶原は、テレビの前で溜息を付いた。
そして隣に座る神の如き医師の横顔をそっと盗み見た。
表情に変化は無い。ただ何時ものように美しい、それだけだ。

「秋くんは、応援はいらぬと言っているのですね、ドクター」

「ええ。きっと、彼の足手まといになるだけです」



 テレビの画面には、メフィスト病院が映し出されていた。
外からでは平穏そうに見えるが、テレビ・ラジオ・宣伝カーによって
「一時間前に雨に触れた可能性のある人間」は速やかに<医者へ行って診断を受けろ、
との勧告が出された為にどこの病院も、慌しく診療が行われている真っ最中なのだ。

「移動手段は車のみ。雨に触れたところは仮令、乾いていても
歩いてはならない、……果たしてどれだけの<区民>が守っているか……」

「日が射せば分かることです」

 区長をぎょっとさせたメフィストは、音も無く立ち上がりドアの方へと向かった。

「日が射してきたようなので、私は診療の方へ行きます。
区長はどうか……」

 珍しく不自然に切れたメフィストの言葉を気にするものは、
応接室には誰一人居なかった。
数秒前まで会話をしていた区長が唐突にカーペットの上に倒れこんでいた。

「……区長がこれでは、<区民>は……」

 メフィストの呟きは、新宿全土で発芽をはじめたトリカブトによる
異様な音と、レポーターの声でほとんど掻き消されていた。

「見てください、<新宿>中が緑に染まっていきま……きゃぁっ……!」

 最後にテレビ画面に映ったのは、トリカブトだらけになったヘリコプターの映像だった。
























いずみ遊 2003年1月18日





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