炎 *いずみ遊* 降り出した雨が、新宿の街をモノクロームに染めていく。 乾いた塗装道路が、水を吸って変色する。 立ち込める土の湿る香り。 草花が息を吹き返す。 時雨の時分には少し早く、野分の様には激しくなく。 秋の彩りを終えた木々に潤いを与えるような、 優しい雨。 小さな公園。 ブランコ。 滑り台。 新宿の雨の中を遊ぶ子供は勿論一人もいない。 けれど、人間は一人、いた。 大きな桜の木の下で、まるで雨宿りをするかのように、 木にその躯を預けている。 散ってしまった桜が自分の化身を残したのかと思われるような 白皙の美貌。 ――秋せつら。 せんべい屋の店主。 しかし、彼は彼では無かった。 そんな彼の前に、一人の人物が現れた。 ゆっくりとした足取り。 しかし、確かに彼の方へと歩み寄ってくる。 その白いケープを一目見れば、<区民>なら彼の正体を すぐに看破できる。 <魔界医師>。 傘も差さずにやって来たのだろうか。 彼がいつも使用している黒いリムジンは辺りにはいなかった。 「珍しいな、「私」の君」 医師の声に、ゆっくりとせつらは顔を上げた。 鋭い視線が医師を射抜く。 けれど、医師はそれを気にした風も無い。 そっとせつらの右腕を手に取ると、ふむ、と頷いた。 「良く此処まで保ったな。流石、と言っておこう」 気だるげに、しかしこちらの身が竦む様な鋭い雰囲気を発しながら せつらは医師をやや見上げた。 「何故、ここが分かった」 医師は肩を竦めた。 答える気はないらしい。 せつらは口元だけで笑うと、それ以上の追及はしなかった。 聞いても無駄と長い付き合いで分かっている。 医師には医師の、せつらにはせつらの領分というものがある。 それを侵すことは、互いの死を招きかねなかった。 「すっかり血の気が引いてしまっている。 何時やられたのかね」 言いながら医師はせつらに躯を寄せる。 すっと、せつらの脚の間に白いケープが滑り込み、 その間に左手はそのまませつらの右手を頭上の幹へ繋ぎとめ、 何時も優雅にメスを振るうその右手はせつらの頬に添えられた。 「一時間程前だ」 「誰かが通り過ぎるのをこんな人目の付かない所で待っていたのかね」 医師は妖艶に微笑んだ。 それに呼応するかのように無造作にせつらの左手が伸ばされ、 医師の黒髪を鷲づかんだ。 そのまま、引き寄せて、軽い口付け。 木々がまるで動揺したかのように、風にざわめいた。 直ぐに離れ、しかし、互いに視線を外すことなくそのまま再び唇が重なる。 今度は、深く。 「答えてはくれぬのかね?」 絡みつく医師の視線を避けるように、せつらは視線を落とした。 長い睫毛が頬に影を作る。 「お前を悦ばせることは、私の本意ではない」 それが、問いに対する答えだった。 医師は喉の奥で笑うと、空いた右手でせつらの黒いコートを割り、 シャツのボタンを上から4つ、外した。 肌蹴た素肌に、水滴がぽつりと降ってくる。 桜の木までもが彼の肌理の細かい肌を賛美しているのだ。 医師は恭しく腰を屈めると、その水滴を追って、舌を這わせた。 「何故、病院へ来なかった? こんな所で待っているよりは高い確率で逢えたと思うが」 「逢いたくなかったからだと言ったら?」 「それは大いに矛盾を孕んだ解答だな。 私はここでこのまま帰っても構わないのだが」 忌々しげに瞳を細めたせつらは、自分の胸元に唇を寄せる医師の頭へ 口付けた。 医師はまたもや低く笑って、顔を上げた。 「私が患者を置いて帰るわけがなかろう」 「藪の考えることは私にも分からん」 「光栄だ」 両方の胸の突起を細い指と舌で弄る。 中途半端に開いたシャツが、医師の動きに合わせて、せつらの肌を擽る。 医師はそれが治療だとも言わんばかりに、他の動作を全く行わなかった。 そして。 何処か視点を遠くへ置いていたせつらが、急に低く呻いた。 医師によって幹に押し付けられた右手に不自然に力が入る。 「耐えられるかな?」 せつらはちらりと自分の右手に目をやってから、瞳を閉じた。 「なるようにしかならない。治療するのはお前だ。 他の誰でもない」 その顔色からは何も伺い知ることはできない。 しかしそれを許しととったのか、医師の手の動きがあからさまになる。 胸元からするりと滑らかな肌に沿って医師の片手が下肢へと移った。 既に熱を持ち始めているせつらに布越しに触れ、観察するが如くに せつらの顔を覗く。 せつらはそれ以上、口を開くことはしなかった。 幾ら雨とは言え、時刻はまだ夕暮れ時。 公園の前の道路も、ちらちらと傘の花が咲いている。 何時誰が公園内に入ってくるとも知れない。 しかし――それが、劣情を煽る事は承知のこと。 幾つもの汗、とも雨粒、とも言えぬ透明な液体が、 せつらの頬を伝った。 その液体を舌で追った医師は酷く淫靡に唇を歪めた。 再びせつらが目を開いた時、医師はせつらの足元に跪いていた。 手の甲で唇を拭う。 その姿が、いやに扇情的だ。 「抜けたようだな」 医師は音も無く立ち上がり、せつらの右手を漸く解放した。 せつらは二、三回手首を回して、ああ、と返す。 「では、私はこれで」 優雅に一礼して、医師は踵を返した。 その背に、静止の言葉が掛かかるとは、よもや……。 「酷いな。このままで置いていく気か?」 ――刹那、背を向けたままの医師が深い笑みを口元に刻んだ。 「治療は終了した。君は完治している。 右手はもう、自由に動くのであろう?」 医師は流れるケープの影さえ優雅に、振り返った。 「理屈を捏ねる医師は好きではない。 ……治療費とでも思えば良いだろう?」 せつらの右手が医師へ向かって差し伸べられる。 その手にも、容赦なく雨は降る。 「この私を、外で辱めようとするのかね」 「議論の余地はありそうだが、躯が持たない。 それとも、「僕」の方がお好みかな」 「さて」 医師はせつらの手を取った。 遠くで、犬が吠えていた。 いずみ遊 2002年10月17日 後編へ *ブラウザを閉じてお戻り下さい* |