幸福飽和量超過 <前編> *いずみ遊*
瞳を開けると、見慣れない天井が目に入った。
掛けられた布団はラベンダーの香り。
「気がついたかね」
遠くで声がする。
聞き間違えるはずが無い、声。
誰の耳にも媚薬の如くに溶け込むドクター・メフィストの声だ。
では、ここはメフィスト病院の院長室、ということか。
確かめるべく声のする方へ顔を向けると、僅かだが、肩が引きつる感じがした。
「左肩を腕ごと引き千切られたらしい。
君と、肩を運んでくれた人に後で礼を言っておくことだな。
――君ともあろう男が」
言葉だけを追えばぶっきらぼうだが、
それを言うメフィストの口調は只管穏やかだ。
音も立てずこちらへやって来て、そっとベッドに腰掛け
手を伸ばして髪を梳いてくる。
柔らかい熱と共に。
「何か欲しいものはあるかね?まる一日眠っていたのだよ」
無意識に時計を探していた目の前に、
腕時計を差し出される。
「3時過ぎだ。夜明けまでまだ少しある」
「なにか……何か飲みたい」
「甘いものがいいかな」
用意してあったのか、メフィストは赤いパッケージの
紙パックを取り出す。
りんごジュースだろうか。
軽く頷くと、メフィストは自分の口にその液体を含み、
そっと唇を合わせてきた。
口内に流れ込むぬるく甘ったるい液体。
妙にねっとりとしたそれは、りんごではなく、桃の味がした。
「まだいるかね?」
「もっと」
親鳥が餌を運んでくるのを待ちわびる雛のように
薄く口を開いて待つ。
唇が触れ合い……
再び生ぬるい液体が口の中に満たされる。
ゆったりと舌の上で液体を回すと、舌に絡みつく……。
それを飲み干すのを待って、メフィストの舌が
明確な意思の下、口内へと侵入して来た。
歯列をなぞり、更にその奥へと――。
右手をメフィストの首へと回し、それに応える。
「やけに積極的じゃないか」
紅く色づいた唇。
残る桃の香り。
メフィストは、欲情した瞳を隠すことなく見つめてくる。
そこに映る自分を想像して、背筋に痺れが走る。
愛されている。
その事実を、感じ取る。
「悪いかね?」
既にベッドに乗り上げているメフィストが再び身を屈める。
冷たい指先が顎に掛かる。
品定めをするが如く――いや、こいつの場合、
臓器の選りすぐりをしている、と言った方が近いだろうか――
顔を覗き込んでくる。
「悪くは無いけど。僕は病人じゃないの?」
メフィストはちらりと、肩の方へと目を遣り、それからそっと
耳元で囁いた。
――君は患者である以前に私の想い人だ、と。
初めから抵抗など試みる気は無かったが、一気に力が抜け、体温が上昇するのが分かる。
その様子の一部始終を見届けて、メフィストは手を顎から胸へと滑らせた。
元より、上半身は何も着せられていなかった。
体温の行き渡った布団を剥ぎ取られ、ざわりと肌が粟立つ。
その肌を殊更丁寧にメフィストの手のひらが移動する。
「……そこまで言うならさ……脱いでよ」
メフィストの手が止まった。
突然のことに、驚いたのだろう。
ケープの中のシャツに手を伸ばし、本気だということをアピールする。
言おう言おうと思ってずるずると来てしまったこと。
メフィストの目をしっかりと捉えて言葉を続ける。
「僕のこと、好きなら脱いでよ」
言葉にして言えないなら……
「態度で示せ、と?」
メフィストは苦笑しながらも、ケープを取った。
今度はこちらが驚く番だった。
そんなにあっさりと承諾するとは思ってもみなかったのだ。
今まで何度か躯を重ねたが、彼が服を脱いだのを見るのは
これが初めてだった。
「君が脱げと言ったのだよ」
言われて、思わず笑ってしまった。
拗ねている子供のような言い草だ。
しかし、脱がないと言い出すと困るので
直ぐに笑いを引っ込めて、下からボタンを外すのを手伝う。
馬乗りになった相手のボタンを外すのは酷く困難だ。
案の定、メフィストの方が速くボタンを外し……
上からボタンを外していたメフィストの手と下から外していた自分の手が……
触れた。
絡め取られ、甲に口付けを……――
腹の底から、圧倒的な熱が
…………込み上げてくる。
ああ、幸福の規定値を遥かに越える気持ちを、
何と表現すれば良いのだろう。
メフィストが眩しげに瞳を細めた。
多分、同時に同じ気持ちに満たされて、溢れそうになっている。
「君をこのまま殺してしまいそうだよ、せつら」
メフィストはそう呟いて、シャツを脱ぎ捨てた。
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いずみ遊 2002年9月1日
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