墜落 *いずみ遊*
月の奇麗な夜だった。
ふわふわと漂う、温かい空気は未だ夏のそれとは程遠く、
人々を陽気な気分にさせるようなもので、
浮かれた<区民>は、夜にも関らず、街へと繰り出していた。
何時もより少し騒がしい雑踏。
老若男女問わず、誰もが笑顔だ。
これも、月の為せる業だろうか。
その中を、一際美しい人物が歩いていた。
ほろ酔い気分のOLや、一触即発のところのヤクザや、
ゴミ箱を漁っていた妖物さえ、その人物を見て、動きを止めた。
今宵の月が、人間の形をして現れたのかと、そう思わせる
その美貌に。
その人物は、ドクター・メフィスト。<魔界医師>である。
メフィストは、滞りない足取りで、青梅街道を歩いていた。
見たところ、月に浮かれて出てきたわけではなさそうだ。
往診の帰りだろうか。
けれど、それならば、彼は専用のリムジンで移動するはずだ。
……やはり、この月の下を歩きたい気分になったのだろうか。
彼の表情からは何も読み取れない。
「おや、奇遇だね」
青梅街道と靖国通りの交差点で、ふいにメフィストが立ち止まった。
ケープが軽やかに後を追う。
「……ホントだ」
返事を返したのは……、西新宿のせんべい屋―秋せつら、だった。
声を掛けられ、立ち止まったせつらは少し困ったという表情を晒したが、
すぐにメフィストの横に並んだ。
ドクター・メフィストと秋せつらと。
二人の新宿の化身を一度に見た通行人は
暫く喋る事も歩く事も叶わず、何人かは呼吸困難に陥った。
そんな周りを気にする様子は二人には見られない。
あまりに日常茶飯事すぎて、目に入っても、それが大事な内容だと
脳が判断しないのかもしれない。
「お出掛けかな?それとも仕事か」
メフィストの問いに、せつらは茫洋と笑い返しただけだった。
「おまえは往診の帰りか?何で歩いているんだ?」
横断歩道を渡り、短いトンネルをくぐる。
歌舞伎町らしく、一目で水商売と知れる女が多く見られるが、
この二人に敵う美しい女などいるわけも無かった。
「何となく、だ。
今日は、急患が運び込まれない限り、自由の身だからな」
コマ劇場へと続く道を過ぎても人ごみは減るどころか
どんどんと増える。
しかし、自然と二人が通る道は人が除けたので、
歩くのには不都合はない。
それは常のことだった。
「……ふぅん……」
気の無い返事を返しながら、せつらは頭上の月を見上げた。
通行人の何人かが釣られて上を見遣る。
――満月。
白く煌々と輝く月は、きっとこの二人を照らしているに違いない。
「だから、書き物をしながら君の話を聞くくらいなら出来るが?」
月を眺めながらメフィストの声を聞いた者は
その場で恍惚と溶けた。
美とはプラスされるものではなく、二乗されるものなのかもしれない。
せつらは天空の月から地上の月へと視線を戻した。
白いケープが煌く。
「……なんで分かった?」
「月を、見たのだろう?だから、逢いに来たのかと思ったまでだ」
平然と医師は言った。
せつらはもう一度満月を見上げる。
そうだ。
店仕舞いをして、シャッターを下ろそうと手を伸ばした拍子に、
今宵の月が目に入ったのだ。
そして……思い出した。
つい先日、条件付きだが、自由に操れる様になった「月」の存在を。
「ああ、どうしてそうおまえは自信家なんだろう。
嫌になるね」
月を見て、思い出されるなどと、常人は口にはしない。
けれど、ドクター・メフィストは違う。
月すらも惚れる美貌を持つ彼ならば、誰もが認めてしまうから。
「『じしん』が無ければ、君に逢う事も無かった」
「一理あるけどね、そりゃ」
靖国通りを左に折れ、旧区役所通りへと出れば、
すぐにメフィスト病院が見える。
この病院を見て、幾人が安堵し、幾人が恐怖を感じただろう。
ドクター・メフィストの不夜城。
誰も侵すことの出来ない聖域……――
「別に……」
ちらりと病院を見て、せつらが呟いた。
今日のメフィスト病院も、恐ろしいまでに静寂を守っている。
「何かね?」
一足先に、病院の入り口へと足を踏み入れたメフィストは
後ろを見遣った。
軽やかにケープが舞う。
「話があって来た訳じゃない」
せつらは立ち止まってそっぽを向いた。
風が優しく黒いインバネスを揺らす。
「構わぬ。今の私は君のものだ」
神々しい……まるで宣託のように、メフィストは言った。
ベッドに腰掛けたメフィストの首筋へせつらは唇を寄せる。
メフィストは心持ち顔を上に上げ、大人しくされるがままだ。
「この間みたく、途中で邪魔が入ったりしないだろうね」
メフィストの白い肌に、赤い花びらを散らし、満足したのか
せつらが顔を上げた。
「さて、それは私にも分かりかねる」
息一つ上げずに、平然と医師が答える。
そもそも、彼が息をしているのかどうかが問題ではあるのだが。
「医者ってのは面倒くさい仕事だね。閉店時間を作ればいいのに」
言いながら、せつらは白いケープの脱がし方をあれこれ実践する。
着ているということは脱げる筈なのだが、どうにも上手く行かない。
「君の副業だって似たような物だろう」
秋せつらの副業――人捜し屋。
「そうかな。あれは、依頼を受けてから忙しくなるんだ。
医者は依頼なんてないだろ?何時だって突然忙しくなる」
ケープを脱がそうと四苦八苦するせつらの手を、
メフィストの繊手が捕まえ、口付ける。
せつらは空いている方の手を、メフィストの黒髪の中へ差し込み、
腰を屈めた。
至極真摯に――という形容がこの場に合うのだろうか――
口付けを交わす。
ん、とせつらが眉を寄せた。
そのまま――急く様にベッドに雪崩れ込む。
「君も大概せっかちだな」
組み敷かれながらも、メフィストは常の表情を変えずに言った。
憎たらしいと言えば憎たらしいが、常の表情でも美しいのだから、
しょうがない。
「僕はおまえより若いんだ。
それに……邪魔が入るのは真っ平ごめんだよ」
せつらは肩を竦めると、メフィストへ唇を合わせる。
そっと舌を忍ばせ、口内を蹂躙する。
メフィストの舌を甘く噛むと、突然、身体を入れ替えられた。
「何のつもり?」
逆に組み敷かれてしまったせつらはメフィストを見上げる。
――彼の厭らしく濡れた唇は、自分の所為。
せつらは、メフィストの髪を一房とり、軽くひっぱった。
煽られている。
せつらは軽い眩暈を感じて瞳を閉じた。
これ以上見ていたら、自分はどうなるか分からない。
「前に言わなかったかね?
私を抱くより、私に抱かれる方が数百倍気持ちいい、と」
「おまえは僕の自由になるんじゃなかったのか?」
言いながら、どうでもいいとせつらは思っていた。
どうでもいい。
今ここで瞳を開いたら、直ぐにでも自分は組み敷かれている自分を
正当化できてしまう。
逆らうことなど出来るはずが無い。
――こんなにも、好きなのだから。
「ならば君の意見を尊重しよう。
私を抱きたいのかね、それとも、このまま……」
せつらは片肘を後ろについて、起き上がり、
目の前の医者に口付ける。
続きの言葉は全て、せつらの口へと吸い込まれていった。
二人の視線が絡まる……――
ほら……やっぱり、全てを許そうとしている。
せつらはメフィストの瞳を覗き込みながら、考えた。
自分の方が優位な筈なのに、
目が合えば、
抱きしめられれば、
口付けられれば、
何時の間にかに、彼を全て許している。
「メフィスト」
優しい口付けはもういいから……――
悲鳴を上げる片腕救護に、メフィストを犠牲にしてベッドに逆戻りする。
「好きにしていいよ」
「……どういう心境の変化かな」
「さぁ……、今夜が満月だからかな……」
メフィストは低く哂って、ケープを取った。
――こうして、月は彼の元へと堕ちて行った。
無論、彼が月へと堕ちたのかもしれないが、
それは些細な違いでしか無い話だろう。
いずみ遊 2002年6月4日
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