逃亡 *いずみ遊*











 ――好きだ







 時間にすれば、10秒かそこらだったのだろうけれど、
せつらには永遠ともとれる間が在った後、
メフィストは、足元に落ちていたせつらのシャツを取った。

「着たまえ。風邪を引く」

 せつらが動かないのをどう思ったのか、
メフィストはケープから腕を出し、シャツを広げ、
それを肩に掛けてやる。

「風邪を引いたら、おまえが治しに来ればいい」

 せつらの目線は、メフィストから動かない。
メフィストも、それを穏やかに見つめ返す。

「……ああ、そうだな」

 それは<魔界医師>にしては、驚く程感情の籠もった声であった。

「何を恐れている?
いや、それとも、何かこれ以上を望んでいるのか?」

 せつらは憑き物の落ちたような
――実際、そうなのかも知れないが――
妙にさっぱりとした口調でメフィストを問い詰めようとする。
どろどろとした執念も、綿菓子のような恋慕も
全て、抜け落ちていた。


「『僕』が気に入らないのか?」

 メフィストは表情を変えない。

「『私』でなければ、駄目なのか?」

 質問を重ねても同様だった。

 ――『僕』と『私』。
せつらを構成する、複雑な人格構造。
冷酷な魔人、『私』こそ、メフィストの求めるせつらなのだ。

「メフィスト、答えろ」

 メフィストは答える変わりに、その手をすっと上げ、
せつらの顎を捕らえた。
そして、漸く、口を開く。

「君は死なないと、私に約束できるかね?」

 唐突な質問だった。

「……できない」

「この先、何が有っても、今までの関係を続けられるという
自信を持てるかね?」

「……おまえが、いつもみたく裏切らなければね」

「しかし、それを含めて、我々の関係だと言うならば」

「それは、可能だと、思う」


 せつらは、メフィストの深い双眸に飲み込まれていく感覚を
味わっていた。
奥底へと沈んで、気が遠くなる……――

「……そうか……。
ならば、好きにするが良い」





 メフィストはそう告げると、せつらが次の句を発する前に
受話器を取り上げた。
これ以上の会話はしたくないらしい。
また、切ってやろうかとも思うが、
あまりにも大人気ないので止めておく。

 その代わり、電話線の向こうの誰かと話し始めたメフィストを見て、
せつらは態と大きく溜息を吐いた。
そして、いまいち腑に落ちないという表情を露わにしながら
シャツのボタンを嵌め、インバネスを拾った。



「お邪魔様でしたっ」

あかんべーと舌をだし
(と言っても、メフィストはこちらを見る事すらしなかったが)
ドアを思いっきり閉めた。

 釈然としない。

 好きにするが良い、とはどういう意味だ。
今までだって、メフィスト相手に遠慮などしたことはない。
今更、本人から了承をもらうような事でもない。
藪医者め、
分からないことだらけじゃないか。







 怒りと困惑とで、頭がごちゃごちゃになりながらも
足だけは動かしていたらしい。
気がつくと、きちんと、家の前に着いていた。






 秋せんべい店と書かれた看板の下には明かりが灯っていた。
どうやら、バイトは店主の帰りを待っていてくれたらしい。
しかし、どうにもこうにも、人と話したい気分ではなかった。

 何やら、話がしたそうなバイトをつれなく家へ帰し、
そのままシャッターを閉める。
店へと続く戸を引き、電気を点けると、やっと人心地がついた。
どうやら、相当に疲れていたらしい。

 ――どう考えても、精神的な疲れだ、これは。

 卓袱台に腕と頭を預ける。
冷たさが気持ちいい。

 ――言うつもりなんてなかったのに。

 思い出して、かっとなる。
何故、あのタイミングで言ってしまったのだろう。

 ――あれじゃぁ、まるで縋っているみたいだ。

 そこまで切羽詰まっていた訳ではない。
今までの関係で自分は満足していたのだ。
何時からだろう。
どうして、自分はこんなにも、あいつのことばかり……――





 またまたドツボに嵌りそうになって、せつらは慌てて頭を振った。

「寝よっ」

 声に出して言ってみる。

 熱いお風呂に入って、ふかふかの布団で眠ろう。
そうだ、そうしよう。

受話器を外し、携帯電話の電源も切って、
静かに眠ろう。
今日は何も考えない。
考えない。















 逃げてしまおう……――
















 逃げるメフィストを卑怯だとしながら、
そのメフィストの言葉から逃げる自分。



 互いに互いの理由があるのだろうけれど……――




 今日の所は、おやすみなさい。
同じ空の下で、追撃者と逃亡者が同時に休んだって、
きっと誰も怒りはしない。
彼らにだって、休息は必要だから……

















おやすみ、追撃者。
おやすみ、逃亡者。
今は武器を置いて……―――












いずみ遊 2002年5月1日



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