追撃 *いずみ遊*
さらさらとペンの走る音が、淀みの無いリズムを刻む。
次のページを捲ろうと、紙を取った親指と中指、
そして、宙に浮いた形になる人差し指が妙に色っぽい。
真摯に文字を見つめる瞳は、長い睫毛に隠れ、殆ど見えない。
時折、前の文章を見るのか、瞳が微かに開かれ、
夜の海の様な色が、揺れるのが分かる。
長い黒髪が、一房、肩を伝って流れる。
煌くことを忘れずに……――
せつらは、ドクター・メフィストの一挙手一投足を
ソファー座りながら、飽くことなく見ていた。
ドクター・メフィストに出会った人間は、しばしば、この様な状態に陥る。
その美しさに、近づくこともできず、また遠ざかることも出来ない。
ただ、ぼうっと眺めるのみ。
しかし、せつらは別に、ドクター・メフィストの美しさの為に
彼を見ているのではない。
確かに、彼は茫洋とはしていたが、これは何時も通りである。
では、何故、彼を見つめる必要があるのか。
答えは簡単である。
どうすれば構ってもらえるのか、思案中なのだ。
せつらがメフィスト病院へ来た時、院長は往診中だった。
すぐに帰ってくると言われたので、院長室で待った。
程なくして、メフィストは帰ってきた。
しかし、せつらを見ても、仕事がある、と
大した言葉も交わさぬまま、机に向かってしまった。
そして、その状態が今に至る……――
せつらは何度か口を開いたが、その度に、止めた。
ドクター・メフィストにとって、医者という仕事は
何よりも優先されるべきことである。
仕事中に話を振っても、碌な返事は返って来ない。
忙しいならば、また来るよ、と言って帰ればいいのだが、
何せ、この前の一件で、自分から電話をすることが
出来なくなってしまった。
ここで帰って、この次何時会えるのか、分かったもんじゃない。
いや、会えるには会えても、それが今の様な状態でないと
誰も保障はできないのだ。
「ねぇ、メフィスト」
一時間程の膠着状態が(とは、せつらが思っただけであるが)続いた後、
メフィストは、漸く、一段落とでも言うように、顔を上げた。
そのチャンスを、せつらが逃すはずも無かった。
「何かね?」
嫌な顔は見せない。
どうやら、仕事は全て終わったらしい。
「あのさ、僕の健康診断って、どうなってる訳?」
せつらは月に二回、メフィスト病院で健康診断を無料で、
しかも、院長直々に受けている。
ところが、せつらは今月に入って一度も診断を受けていない。
気が付けば、もう、下旬と言える日にちまで日めくりカレンダーは
捲られていたのに。
「……ああ、今からするかね?」
「頼むよ。最近、胸が痛くなることが多い」
メフィストは、片眉を上げたが、何も言わなかった。
黒いインバネスを脱ぎ、その下のシャツのボタンを外す。
そのまま、重力に従って、シャツは落ちた。
透けそうな程に白く、遠目から見ても肌理の細やかな肌が現れる。
一点のくすみも無い、滑らかな肌。
そこへ、メフィストの繊手が滑る。
「痛い所があれば、言いたまえ」
肩口から、胸へ、二本の指が移動していく。
「メフィスト」
「何か?」
「おまえ……ここまでして、まだ分からないとか言うんじゃないだろうね」
「さて、何のことかね?」
メフィストは至極真面目に、そう言うと、せつらの肩を軽く押し、
身体を回転させる。
今度は、背中へと、手が伸ばされる。
「っ……、僕に、どうして欲しいんだよ……」
ゆっくりと、ゆっくりと、せつらの背中を、滑り落ちる手。
その意思を感じ取った時、せつらは思わず身震いをした。
この医者は……!――
「めふぃっ……止めろっ!」
がたんと音を立てて、せつらは椅子から立ち上がった。
メフィストの足元へ、椅子が転がる。
「何だって、そんな……そんな……」
メフィストは何時もの様に静謐さを湛えた瞳でせつらを見上げた。
そして、微かに笑って、こう告げた。
「……泣くことはあるまい」
言われて、せつらは頬に手を当てる。
その手を、透明な雫が濡らしていった……―――
「おまえの……っ、おまえの所為だ……」
拭っても拭っても後から流れてくる涙。
「……んなの、ひきょ…だろ……」
―――想いを、身体へ直接届けるのは止めてくれ。
おまえの気持ちで、胸が苦しくなる……―――
メフィストは少し困ったような表情をして、
夢の様に立ち上がっる。
「すまなかった」
慰めるように、せつらをそっと抱き寄せた。
頬に唇が沿わされ、涙の跡を舐め取っていく。
背中を抱いた手が、背骨を辿り、腰へ回る。
完全に涙を飲み込んでしまうと、今度は口内への侵入が始まった。
ゆっくりと歯列をなぞり、舌を絡め取られる。
口内を犯され、互いの境界線が分からなくなる。
もっと、奥へと、身体が疼き出す。
白いケープが憎らしい。
一ミリだって、離れていたくはないのに……―――
唇が離れて行く時、それを無意識に追っていた。
メフィストはそれに気付き、苦笑して、
戻した唇を、そっと、せつらのそれに押し当てた。
「これ、邪魔だと思わない?」
多少息の上がった声で、ケープを引っ張りながら
せつらは問う。
「……せつら」
「だから……、はっきり言ったらどうだよ」
せつらはケープの中へと手を伸ばし、メフィストの背中を抱いた。
「私は言わぬよ」
凛と、言われ、何かを言おうと口を開いた時、
耳朶を食まれ、せつらは肩を竦めた。
「あっ……」
背筋から、快感が駆け上がってくる。
耳へと舌を差し込まれ、逃げるように、喉を晒す。
「それは、君の考えることだ」
「どーゆう意味だ……」
それに答えることなく、メフィストは突然、身体を引いた。
筋書き通りと言わんばかりに。
腕はとうに離れている。
「おいっ……ここまで煽っておいて、今更っ……」
「……今更、何かね?」
早く、君も腕をはずしたまえ、とでも言うように、
メフィストは冷静そのものの瞳でせつらを見る。
せつらは、その手には乗らないと、
腕の力を強める。
「今更、はいお終い、はいそうですか、とは行くかっ……」
本心を言わない口はこちらから封じてしまおうと、
せつらは首を伸ばした。
が……―――
「では、その先を君は耐えられるのかね?」
唇が触れ合う瞬間、メフィストは訊ねてきた。
動作が止まる。
「その先……?」
メフィストの言わんとしていることが分からない。
意味を追おうと意識をそちらへ向けると、
予想外に強い力で、腕を解かれた。
せつらは唖然とメフィストを見る。
「何が言いたいのか分からない……」
「結構だ。
服を着たまえ。もうじき、電話が鳴る」
戸惑うせつらへ、冷酷な医師の声で、メフィストは言った。
「どうして、そうやって本心を……」
ジリリ……
せつらが全てを言い切る前に、
メフィストの予言通り、電話が鳴った。
メフィストは、何事もなかったように、ケープを揺らし、
その電話を取る。
……取った。
「この、馬鹿っ!!」
ガチャン……
しかし、同時にせつらはフックを押していた。
二人の視線が、交わる……―――
「好きだ」
だから、もう逃げるな。
せつらは、そう呟いた……―――
いずみ遊 2002年4月30日
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