――気持ちいい。

 普段は、真冬の月のように冷ややかに自分を見下す鋭利な瞳が、
自分の手によって快楽に潤んでいる。
決定打だけ与えられずに、十分すぎる愛撫を得た白い医師の身体は
それ全体が甘美な夢のようだった。
大抵、白い医者に意識を持っていかれて、
どちらが優位なのか分からぬままに行為を終えていたのだが、
今回は慎重にその白いテリトリーを侵して行っていた。
最初は余計なことを言う口、
次はいやらしく纏わりつく絹のような長い黒髪、
誘うように差し出された首筋を唇で辿り……。

 そして、ようやく完全に自分が優位となったこの時、
もはや患者も病院のことも忘れ自分のことで頭がいっぱいであろう医師と
一つになろうと腰を浮かせた。
その時。
本当に、まさにその時だった。
突然、医者が笑い出したのは。

 歓喜に震えるはずだった脳に一気に殺意が芽生える。

「メフィスト!」

 自分の声に珍しく怒気を含まれたのを知ってか知らずか
メフィストはなおも笑いをとめず、呼吸の合間にこれだけを滑り込ませた。

「せつら、……ふふ……きみは、……私の……患者のために……人を、
捜してくれないかね?」










 キツツキ病  *いずみ遊*










 メフィストが水一杯と引き換えに語り始めたのは事の始まりだった。
時を遡ること二週間前のある日。
その日は珍しく、メフィストが精神科の診療室にいた。
重度のうつ病の患者を一気に躁状態に送りこむほどのメフィストの美しさは、
この日も変わらなかった。
いつもより早く少なくなる患者の列の、ちょうど真ん中あたりにその男は
いたのだと言う。
あまりの美しさゆえに、時には恋人ですら触ることを躊躇わせるその身体に、
畏れ多くも(その場に、この糸がなかったことを幸福と思うべきだが)
一人の患者が触れた。
それが、多賀山という男とメフィストの出会いとなる。

 多賀山は神が造ったメフィストの完璧な右手を取って、こう呟いた。

「ああ、先生は開かない」

 これが、メフィスト後に、Specht-Krankheit――キツツキ病と、
カルテに記すことになる多賀山の病だった。












「ええ、そうです、先生。
初めて気がついたとき?
それは、雨の日です。
傘を差してあるいていたら、どうも頭が冷たい。
上を見上げてみたら、傘の、こう、ちょうど芯の部分ですか?
そのあたりに5ミリくらいの穴があるわけです。
そこからぽたぽたとしずくが落ちてきていたんですね。
まぁ、一本くらいなら、どっかに引っ掛けて穴が開いたんだろうとも思います。
けど、もう10本です。
10本連続で買った傘に穴が開いているなんてあるんでしょうか。
私には分かりません。
あとはもう、全部です。全部。
時計は肝心な文字盤に穴が開いて、携帯電話はボタンがない、
お財布からは小銭は出るし、そうなるとなんだか歩いている人も
開いているように見えてくる」

 それで、発狂する間際にメフィスト病院の扉を開いたと、
こういうわけだ。










「それで?」

 メフィストの髪を弄びながら続きを促した。
途中で止められるセックスは身体に悪いが、
途中で止められる謎々も、中々頭に悪い。
病が物にまで影響するということは<魔界都市>の中でも
珍しい現象ではあるが、メフィストはその謎をもう解いている。

「彼はこう考えた。
もしかすると、自分は穴が開いているのだから、
別の誰かはその穴ぶん増えて困っているのかもしれない、とね」

「まさか、物が増えて見えている人間を探せとでも言うの?」

 そんなの病気の人にしか見えないんだから、分かりっこないだろ、と
言ってはみせたが、この男ならそんな依頼もしかねない。
しかし、メフィストは違うと首を振った。

「いや。
患者自身は、別に人捜しを頼んでいるわけではないのだよ。
私が、彼を治療する上で必要なだけだ」

 じゃあその相手は誰だと問うた時、静かにホログラムが浮かび上がった。
今日はどちらにしろ、行為中に邪魔が入ることは確実だったらしい。

「院長、緊急の手術をお願いいたします」

 見慣れた婦長がそう告げたときにはもう、
夢のような恋人は白いケープを身に纏っていた。

「多賀山の幼馴染の夏見という女を探してくれれば……」

 閉まりかけた扉から、人を捕らえて話さない声が鼓膜を揺らした。
――この続きも、そう遠からぬうちに……
恋人の頼みならただでも引き受けるというのに、そんなことを言われては。
いつも頭にほんの少ししかないやる気が
一気に増大しないわけがないのである。













 たったの一日で夏見という女性が見つかり、
メフィストが悪い笑みを浮かべたかどうかは常人には預かり知らぬことだが、
多賀山と夏見はその日のうちに面会させられた。
メフィスト病院の精神科医たちは、院長の治療にみな頭を悩ませたが、
どうしてメフィスト院長がこんな感動の出会いを仕組んだのかは
誰にも分からなかった。

 ただ、多賀山の「信じていて良かった」という言葉が、
みなの心に残ったと言う。












「あ……」

 腰を押し付けるとメフィストは喉を曝け出すように仰け反った。
欲望のままに動かしたくなる腰を、理性で抑えながら、
余裕がある風にメフィストに話しかけてみせる。
じらすのは、この間じらされた仕返しだ。

「それで、僕が探したあの女の人は役に立ったの?」

 薄く瞳を開けたメフィストは、顔に掛かる髪を横に流しながら、うなずいた。

「それは良かった。
じゃあ、キツツキ病の治療法は幼馴染に会うことってわけ?」

 限界まで引き抜くと、メフィストが緊張するのが分かる。
次に来る快楽を享受しようと身体が身構える。
でも、引き抜いた速さよりもずっと遅く、メフィストの中に侵入した。
まだまだ、この程度で終わらせてはやらない。
メフィストもこちらの意図に気がついたのか、
意地の悪い恋人から目をそらすように、身体を捩った。
無論、下半身は押さえ付けているのでどうにもならなかったが。

「違う」

「じゃあ、ぼくがキツツキ病になったら、助かる見込みはまだあるわけだ」

 幼馴染はこの手で殺しちゃったからね。
メフィストは目を泳がせてから、さてと呟いた。

「君がこの病に罹ったなら、私は二度と君の目の前に現れぬよ」














 キツツキ病。
精神病の一種だが、罹った者が触れるものにまで影響があるという点で
特異な病。
様々な物に穴が開いて見える、もしくは穴を開けてしまう症状が一般的。
症状が進むと、人間に穴が開いているように見えはじめる。
原因は、自分以外のものに対する不信。















「初めて多賀山が私に会った時、私には穴が開かないと言っていた。
初対面の多賀山が私に抱く感情はなんだろうか。
それは、私に対する絶対の信頼だ。
そう思ったら、ならば穴が開くのは他のものを信頼していないからだと
原因にたどり着いた」

 散々、突き上げられて、高みに上がったというのに、
メフィストは澱みなく会話を始めた。
こっちは放心状態で、会話についていくのがやっとだ。
つくづく恐ろしいやつ。

「で、何故、幼馴染?」

「多賀山が言っていたのだよ。
私にはかつて結婚を約束した幼馴染がいる。
風の噂で、新宿に戻ってきたとは聞いているが、
秋せつらという人捜し屋は捜してくれるだろうか、とね」

 小学校に上がる前の、本当に小さい頃だったから、
そんな約束は何の効力もないかもしれない、
けれど、憶えていてくれたら嬉しいなぁ、と。
多賀山は信じていたのだ。
幼い二人が交わした約束を、夏見が憶えていることを。
<魔震>からすっかり変わってしまったこの街で、
今この瞬間を生きることに全神経をすり減らす生活の中で、
多賀山はあの約束の記憶だけは変わらないと信じていたのだ。
もしかしたら、それが彼にとって、生きる糧だったのかもしれない。

 でも、それが揺らいでしまった。
新宿に帰ってきたという夏見は、自分の元に会いに来てはくれない。
明日、いいや、明後日……。
「小さい頃、結婚しようって約束もしたね」と笑って、
話したいだけだったのに。
毎日毎日、会社員がせわしなく行き来していたこの街を、
変わることなんてないと信じていたあの風景を、
懐かしがりたいだけ、それだけなのに。
――そして、いつしか多賀山は信じることに疲れてしまったのだろう。

「それで、『信じていて、良かった』か」

 納得がいって、これでぐっすりと眠れそうだった。
布団を自分とメフィストに被せ、冷たい医師の左手を探す。
今日という今日は、夜中に呼び出されないようにと、
その手を握り締めておく。




















「ところで」

「……」

「セックスの最中に笑い出したのは」

「せつら」

「信頼の頂点にいる自分にも、穴が開いていると思ったから、
というぼくの推理は何点もらえるかな?」

「……」

 こちらの答えは、一晩待ってももらえそうになかった。















もちろん、世の中にはキツツキ病なんて病気はありません。
リクエストありがとうございました。                   いずみ遊 2005年12月20日






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