薔薇の名は  *いずみ遊*












 咲き始めのリアンダーが、店先で強烈な香りを放っている。
秋の気配がようやくし始めた、10月上旬。
数日降り続いた雨も上がり、穏やかな秋晴れとなった。
気が早く紅葉した葉が、心地よい風に舞い、
アスファルト舗装された道路を掠めて飛んで行く。
しかし、飛んで行った葉の代わりに、立ち止まった者がいた。
全身を白いケープで覆ったその人物は、
予想通り、願わくは一生顔を合わせたくない人間だった。

「従兄弟なら来ていない」

 先手をうってそう言ったのだが、男は頭を振った。
それにつられて、彼を覆う白いケープも揺れる。
ドクター・メフィスト。<魔界医師>。
<新宿>に住む人間で、彼の名を知らぬ者などいなかった。
そして、それと等しく、彼とせんべい屋である従兄弟の関係を
邪推しないものもいなかった。

 そんな、妖しい考えを知ってか知らずか、
メフィストは自分の目の前にある薔薇を指差して、
口を開いた。

「あるだけ全て」

 心なしか、指された花々は、アプリコット色を濃くしたようだった。
仮面の下の動揺を、腕利きということになっている医者に
悟られたかどうか。

「残念ながら、この花には先約がいて売れない」

 メフィストは口元を綻ばせた。
見透かされた、と考えるより先に
メフィストはバケツに押し込められた小さな薔薇を一本、抜き取った。
屈んだ素振りなど見せず、リアンダーは進んで
彼の手に収まったかのように見えた。

「一本も他の客に売る気がないなら、何故店先に置くのかね?」

 最もだ。
けれど、肯定をする気などさらさらない。

「この薔薇の名前を知っているか?」

 質問に質問で返されて、医者は眉を顰めた。
薔薇は現在、二万種類以上の品種が確認されている。
――更に言えば、リアンダーのようなイングリッシュ・ローズは
花屋の店先で、花束用に切り売りされることはほとんどない。
つまり、メフィストがこの花の名を正確に知っていることを
期待して返した質問ではなかった。

 その間隙を狙ってかどうか、メフィストの背後から、
鈴を振った様な声がした。

「その薔薇、全てくださいませんか?」

 ガレーン・ヌーレンベルグのところの娘だった。










「やぁ、久しぶり」

 別に会いたくなかったという顔を露骨にしながら、
せんべい屋の従兄弟殿が店先に現れたのは、
二時間程前の出来事だった。
秋、という姓を共有する以外、従兄弟とは何のつながりもないと
互いに信じてやまない。

「暇そうだね」

「余計なお世話だ。ここで油を売っているお前よりは忙しい」

 のほほんと皮肉を受け流し、せんべい屋は足元の薔薇を見た。

「リアンダー?珍しい」

 およそ、もち米とせんべいの焼け具合しか興味のなさそうな
従兄弟が、その薔薇の名前を当てたことに僅かながら驚いた。

「金木犀の香りに飽きたので仕入れてみた」

 ああ、とか、うんとかよく判別つかない言葉を口の中で発して、
せんべい屋はこちらを見た。
仮面を透過するような視線。
こいつには、この顔が見えているのではないかと
時々、考えてしまうのはこの所為だった。

「お願いがあるんだけど」











 メフィストは少し横にずれて、少女を招きいれた。
まるでお人形さんのようだね、という褒め言葉は、
彼女にとっては禁句だった。
何故なら、彼女は人形そのものだから。

「その薔薇、全てくださいませんか?」

 その言葉を受けて、漸くリアンダーを狭いバケツの中から
救出した。
胸元に抱えたそれからは、やはり強くフルーツの香りがする。
果たして、花自身は医者の元に行けなくて残念に思っているのか
どうか。

「君の店は客を選ぶのかね」という疑問を医者が口にする前に、
少女はにっこりと微笑んだ、かのように見えた。

「せつ……秋さんに頼まれましたの。
リアンダーという薔薇が欲しいと」

 その場の全てが解決したかのように思われた。
リアンダーという薔薇の名前に、医師は数秒想いをめぐらしたようだ。
しかし、すぐに心得たようで、薄い唇に微かに笑みを浮かべ、
ケープを翻した。

「あら、メフィスト先生は何か買われませんの?」

「往診の途中だったことを思い出した」

 その声が届いた時には、何処からやって来たやら黒いリムジンの中に
メフィストの影が消えていた。

「変な先生」

 人形娘は呟いて、お財布を取り出した。
こちらから言わせれば、あの藪医者が変でない時の方が少ない。
しかし、少女は別のことに囚われてそのことに気付かないらしかった。
もし、彼女の中に熱い血液が流れていたら、その頬はピンク色に染まり
瞳は潤んでいただろう。
愛しい人から、物を頼まれた、その嬉しさに。

 ――だけど。

「転ばないように気をつけて届けてやりな」

 少女が見えなくなるほど大きなリアンダーの包みを渡しながら、
自分の顔が仮面で隠れていることに安堵する。
愛らしくスカートの裾をちょいと摘んで挨拶してみせると、
こちらの忠告を瞬時に忘れたように、少女は駆け出して行った。












「お願いがあるんだけど」

 従兄弟からのお願いは、却下することにしている。
常ならば。
けれど、茫洋とした雰囲気が乱れて、切とした目に見つめられ
その言葉を飲み込んだ。

「これから、全身白いお医者様が、往診でこの辺りを通る。
あの藪医者だ。
あいつが万が一、この花の名前を知らないのなら、
知らないでこの花を欲しがったら、売らないで欲しい」

 それでは商売にならない、そう返そうとして、再び口を噤んだ。
おいおい、と従兄弟の肩を叩きそうになる。
正気か?と。

















リアンダー。
恋人ヒーローに逢うため、毎晩海を泳ぎ渡って行った
ギリシア神話の主人公の名前からつけられた薔薇。
神話の中でのリアンダーは、
嵐に遭い、溺れ死ぬという悲劇の主人公だ。




















 その日、恋する少女と、恋する従兄弟の間で交わされた「お願い」は
どれ程残酷で、しかしどれ程真摯だったのだろう。
一介の花屋が知る由もなかった。






















蒼碕紫鴻さんによるリクエストでした。リクエストありがとうございました!
ふゆはると言えば、花。花といえば、薔薇!と勝手な妄想により出来上がりました。
どうして、せっちゃんがその場で薔薇を買い占めなかったのかを考えると、
さらに残酷ですが……。まぁ、あまり深く考えないであげてください。
(スタイルシートを使用しています。見難い、見られないという方はご一報を。
また、背景のバラはリアンダーではありませぬ)




いずみ遊  2004年10月4日






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