接点 *いずみ遊*










 季節外れの台風も、夜半過ぎにはこの街を通り過ぎるだろう。
窓ガラスを伝う雨粒に滲む歓楽街の盛況も、ここまでは届かない。
まるで、コルク蓋のガラス小瓶だ。
現実から乖離したのは、向こうか、こちらか。
ベッドが軋み、黒い影が起き上がる。
――実に興味深いと言っては怒られるか。
彼の複雑な心中も、今に黒い雨に溶けてしまうだろう。










 乱暴に扉が開かれ、そこに現れたのは予想とは違う人物だった。
否、彼はきちんと受付を通り、ここへやってきた。
それでも、その姿を認めた途端、これは違うと直感した。
研ぎ澄まされた刃物のような、鋭い波長を隠しもせず、
男は静かな口調で言った。

「失敗した」

 何が、と問うことも憚られるような、厳かな調子で、
彼は――秋せつらはそう言って、水を所望した。

「これだから、女は――」

 私の専売特許を口にしてから、気が付いたように私を見る。
氷を含んだかのような、微笑み。

「メフィスト?私には、交渉を持ちかけてはくれないのか?」

 ――それは、彼の敗北宣言だった。






 誰かが、この世界の仕組みを分かっていることはない。
全能の神がいたとしても、神は何故自分が存在しているのか
答えを見出せない。
だから、何故自分がこんな事態に陥っているのかなど、
誰に問いただしても分かりはしないのだ。
漆黒の、それだけは嘘のように美しいと思える長い髪が、
自分の肌を擽るのが、まるで遠い出来事のようだった。

 ――おまえは手を出すな。これは僕の仕事だ。

 そう息巻いたから、メフィストはこの仕事について一切関知しなかった。
いや、情報くらいいくらでも得ていただろう。
そして、じっくりと、蟻地獄に沈んでくるのを待っていたのだろう。
どうしても外せない、ジョーカーを胸に隠して。

「何を、考えている?」

 赤い舌が、肌を優しく、きつく食んでいる。
今すぐここから逃げ出したい。
背筋が強張る。

「せつら?」

 メフィストの瞳に、確かな欲情の色を見て、右手が動きそうになる。

「名を、……呼ぶな」

 一思いに殺してしまいたい。
この苦痛の時間を、一刻でも早く終わらせてしまいたい。







 組み敷いた彼を、長く留めておきたかった。
それが、「私」と名乗る彼ならば、なおさら。
脚を広げさせ、じっくりと躯を開いていく。
先を早くしろと言わんばかりに睨むその姿さえ、
こちらを楽しませるだけと彼は知っているだろうか。

「もっと早い段階でくれば、こんなことにはならなかった」

 中指を彼の中へ入れると、軽く腰が上がり、
嬌声とも悲鳴とも取れる声が飲み込まれた。
温かい中を、思うままに掻き回してしまいたかった。

「ふ……、何を……っ」

 肩を押さえつけて、無理矢理、まだ十分に慣らしていない中へ
腰を押し付ける。
今度ばかりは、小さな悲鳴があがった。
構わず両脚を掬い上げ、数回奥まで突き上げる。

「僕、などという男に惑わされたか?
君にはあの宣言は、文字通り意味がなかった」

 苦しげに顔を顰めた男は、返事をしなかった。
どうせ口を開いても、出てくるのは碌でもない単語の羅列だろう。
だからといって容赦などしない。

「彼女が私の患者だと気付いた時点で、どうして来なかった」








 ――お願い、病院へ……メフィスト先生のところへ……。

 今でも、死ぬ間際の女の声が耳元に残響のように纏わりついている。
流石に、その時は笑った。
笑うしかなった。
その女が死ぬのも生きるのも、最早どうでもよくなっていた。
リングを断ち切るためのことも、しっかりと、どうしようもないくらいに
彼に繋がっていた。

 ――おまえは手を出すな。これは僕の仕事だ。

 何故?
何故、こうも関わる仕事がおまえに繋がる?
やりきれない苛立ちと、苛立ちを感じることへの苛立ち。
気にするな、と自分に言い聞かせる度に、疑問が生じる。
どうでもいいはずではないか。
あの、人を食った医者が、どこで何をしていようと、
それがどう自分に関わっていようと。
気にすることすら禁じなければならないほど考えてしまう
その理由は、今もこれからも知りたくなかった。

「君は何故、『私』のまま、ここへ来たのかね」

 そんな胸中も知らず、自分と同じ性の躯を弄びながら、白い医師は問う。
最早、問いに答える気力も、持ち合わせていなかった。
何度も絶頂まで追い詰められ、そのくせ最後までは到達させない。
汗でべったりと背中に張り付くシーツが気持ち悪い。

「せつら?」

 呼ぶな、と言う代わりに違う言葉が飛び出した。

「はやく……」

 躯中の水分が、部屋の空気へと昇華したかのようだ。
指が思うように動かない。

「ころしてくれ……」
 ――でないと、この躯の形を保っていられそうに無い。

 メフィストは、ぞくりとするような――それは、幻覚だと信じたいのだが――
笑みを返して、大きく中へと侵入してきた。
解放感とともに、急激な睡魔が襲ってきて、目の前が暗闇にフェイドアウトした。












「水が飲みたいなら、サイドテーブルの上にある」

 度重なる疲労と、快楽に意識を手放していたせつらは、軽く頭を振った。
恐らく、今までのことは悪夢だったと言い聞かせたのだろう。

「一晩、ここで過ごせば雨も止むだろう」

「誰が、おまえと」

 水で潤した喉も、散々枕やシーツに滲み込ませた嬌声のため
掠れていた。

「帰る」

「ご自由に」

 早々と服を着込んだ彼は、もう、鋭さの欠片も背負っていなかった。
黒いコートを羽織い、雑踏に紛れてしまえば、
この男は夜と同化するだろう。
そうなれば、ここから見下ろす街と変わりはない。
日常に、戻る。







 躯を許したことで、何が変わるわけでもない。
それは、互いに諒解していること。
何も変わらない。
変わらないのだ。
重い脚を引き摺って、見慣れた絨毯を一歩ずつ踏みしめる。
これからも、この医者は事件の至る所に現れるだろう。
それは、予感よりも確実なものだ。
けれど、それ以外の全ては不透明のポリ袋に詰め込まれて、
いつ来るとも知れぬ不燃物収集日を、
雨風に曝されて待つのだろう。
ドアノブに手を掛けたところで、声が追って来た。







「無事、手術は成功した」

 ドアに手を掛けた彼の背中に、そう声を掛ける。
扉が閉まる瞬間、彼が何か呟いたような、気がした。












ゆきママさんによるリクエストでした。ありがとうございました。
スタイルシート使用のため、見難い方もいらっしゃるかもしれませんが、
ご一報いただければと思います。
いずみ遊  2004年5月20日



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