桜守 *いずみ遊* 春休みということもあってか、新宿は普段の平日よりも観光客が多いようだ。 <魔震>以前のように、高校生や家族連れが気軽に観光に来られる場所では なくなってしまったが、それでも、観光による収入は新宿区の大事な財源である。 <魔震>が新宿に残した爪あとは数あるが、その中で最も規模が大きいものが 新宿区を綺麗に縁取りした亀裂だ。 この亀裂の所為で、新宿は三箇所にある吊り橋のほか、 他区と完全に断裂されている。 吊り橋には、「ゲート」と呼ばれる検問所のようなものがあり、 それぞれ、西新宿ゲート、四谷ゲート、早稲田ゲートと呼ばれる。 観光ツアーでの一番人気は、西新宿ゲートから入る 「新宿日帰りバスツアー 〜新宿の美と危険を楽しむお手軽パック〜」らしい。 秋せんべい店、新宿中央公園、私立メフィスト病院、戸山住宅を バスで巡るこのツアーは、予約が3ヶ月先まで埋まっているという。 せんべい屋はともかく、最高危険地帯である新宿中央公園を観光した後に メフィスト病院を組み込むというコースは、見方によっては恐ろしい限りである。 そんな人気ツアーのバスを見送った後、秋せんべい店の店主である 秋せつらは、ふあ、と背伸びと欠伸を同時にして、ぽりぽりと頭を掻いた。 そんな行動をしていても、「かわいい!」と黄色い悲鳴が飛ぶのは、 ひとえに、その、常人離れした美しさ故に他ならない。 ある者は彼を一目見た途端に両足を骨折しているのも忘れ走り出し、 ある者は彼に触れられるなら全財産を投げ出しても良いと咽び泣いたと言う。 話だけを聞けば、何を馬鹿なと思う人々も、 彼の姿をほんの一秒でも見たならば、同じような逸話を残すに違いない。 限界を超えた美とはそのようなものである。 「今のバスで今日は最後です」 バイトが店の予定を書かれた大学ノートに小さくチェックを入れる。 時刻は、15時半。 戸山町へは日没までに行くことが望ましいので、 最終ツアーはこの時間がぎりぎり、と行ったところだろうか。 「これから出掛けるよ。 締めはいつものようにやっといてね」 言われたせつらの方は、最後のツアーだということを知っていたのか、 店にあるいくつかの商品の袋を手に取りながら外出をバイトへ伝えた。 バイトはちらりとせつらを見て、再び大学ノートに視線を戻した。 「メフィスト病院ですか?」 店内の空気が一瞬、凍結するも、すぐに融解する。 「……いや、高田馬場だ」 「そうですか。いってらっしゃいませ」 せつらの返答に少々の間があったが、バイトは特に気にしていないらしい。 何故、メフィスト病院なのだ、と問い質したい気持ちをぐっと押し込み せつらは後を頼むと店主らしく言い残し、店を出た。 一人残されたバイトは、店主が持ち出した商品を、経費から清算し、 再び大学ノートになにやら文字を書き込む。 「病院へは行かず、と。 日中は二週間近くないみたいね……」 バスツアーの予定や予約注文について書かれているその大学ノートに、 バイトだけが知っている符号でそのようなことが毎日記載されていることなど 知る由もないせつらであった。 いらっしゃいませ、と涼やかな声でせつらが招き入れられたのは、 高田馬場にあるヌーレンブルグ家である。 招いたのはカールした金髪と、碧の瞳をした少女――人形娘である。 「ご主人は、在宅中かな?」 手土産のせんべいを渡しながら、中を窺うと、 どこか遠くのほうで、小さな爆発音と、動物のような叫び声がした。 人形娘は肩越しに中を見て、小さく溜息をついた。 「二週間ほど前から、ずっとあの調子なのです。 実験室に篭ったまま、出ていらっしゃらないの」 それは、もうドアを通り抜けられなくなったからじゃないか、と 彼女の主人、トンブ・ヌーレンブグルの容姿を思い浮かべたせつらだが さすがにそれを彼女に伝える気にはならなかったらしい。 しかし、来たものの主人には今日は会えそうにもない。 出直そうかと考えていると、玄関では何ですので、と人形娘がお茶を誘ってくる。 まぁ、暇だし、とせつらは家へ入った。 日本の北西にある国が<魔界都市>を狙って弾道ミサイルを 発射しようとしているとか、迷い道に入り込んだ人物が若返って戻ってきたなど、 他愛のない話をせつらと人形娘がしていると、 ひときわ大きな爆発音が響いた。 さすがにヌーレンブルグ家と言ったところか、部屋が揺れることはなかったが、 あの動物のような叫び声は今回はしなかった。 せつらと人形娘は顔を見合わせ、そして、同時に爆発音のした方を 振り返った。 「……見て参りますわ」 「平気だろう。駄目なら助けを求めてくる」 立ち上がりかけた人形娘をせつらが制する。 ”駄目なら助けを求める”という言葉の矛盾は、 しかし魔人たちにとっては、ないのかもしれない。 人形娘が、そうですわね、とあっさりと引き下がったことからも窺い知れる。 「……あれは、メフィスト病院からの依頼の品なのです。 例のミサイルに関わることなのだとか。 ……せつらさんは何か聞いていらっしゃいますか?」 日本茶を啜っていたせつらは、あち、と呟いて湯のみをテーブルに置いた。 その動作の激しさとは逆に、お茶は一滴も零れなかった。 人形娘にその様子を曇りのない水晶の瞳で見つめられ、 せつらはふーふーとお茶を冷ます仕草をした。 「……何も聞いてないよ。 あいつは僕の事件には首を突っ込んでくるけど、 自分の事件には僕を寄せ付けないんだ」 「……そうなのですか。 それで、最近はお会いしていらっしゃらないのですね」 人形娘が呟く。 「え?」 「いえ、こちらの話です」 自分の店のバイトと、人形娘が店主の予定の連絡をしあっているなど、 一ミクロンも思っていないせつらだ。 「さて、随分長居をしてしまったね。 そろそろお暇するよ」 お茶を飲み干したせつらは、腰を上げた。 椅子を引いたとも思えないが、優雅に立ち上がった姿に、 一瞬、人形である娘の黄金の心臓が高鳴る。 「わ、私も……」 用事があるのです、と言いながら必死にその用事を考えていた人形娘の耳に 飛び込んできたのは、先程の爆発音よりも大きな悲鳴だった。 それが正しく、「できたわさー!!」という言葉だと認識することは、 さしもの人形娘にも、せつらにも出来ないことであった。 新宿には、<魔震>以来、電車が通っていない。 地下に住む住人のために走っているものはあるが、 それを使っても目的地には辿り着けない。 かつては主要な鉄道が新宿を通り、毎日大量の乗客が利用していたのだが、 今の区民や観光客の足はもっぱら車である。 せつらは車を持っておらず、バスに乗ると運転手がハンドル操作を誤ったり、 他の乗客が半狂乱となるため、ほとんどの場合、移動は歩きだ。 せつらの美しさと良く比較されるメフィスト病院の院長の場合は、歩きか 黒いリムジンで移動をしている。 リムジンの後部座席がスモークガラスになっているのは、 院長の美しさに目を奪われた運転手が突っ込んで来るのを防ぐためである、 というのが、区民の一致した意見である。 ただ、それに関して、せつらは違う意見を持っていた。 あれは、中にいるかいないかを分からせないためにやっているのだ。 あの車は新宿において救急車であり、パトカーである。 新宿警察がメフィスト病院に対して、リムジンを最低一日一回、 何もなくても走らせてくれと要請しているとか、いないとか。 「しかし、一体、何それ」 せつらは横に歩く人形娘が手にしているものを見た。 どういうわけか、頭にトンカチと受話器が刺さったまま実験室から出てきたトンブが 手にしていたものだ。 「これをは、はやく、ドクター・メ……」というところで力尽きて トンブは廊下に倒れこんだ。 人形娘はさっと主人に近寄り、身体を支えるのかと思いきや、 主人が手にしていたビンを抱きとめた。 賢明な判断だと言えるだろう。 「私にも分からないのです」 ビンの中には煙が充満していた。 ある時は赤、ある時は青、と刻々と色を変えている。 しかしどの瞬間にも中にあるものは一切見えなかった。 「あら、桜が……」 角を曲がった所に、小さな公園があった。 ブランコと滑り台だけが置かれたその公園には、大きなソメイヨシノが 満開の時を迎えていた。 日は暮れかけていたが、つき始めた街灯がほのかな桃色を 浮かび上がらせている。 「旧区役所の先生が植えられたのですよ」 人形娘の一言に、せつらは、桜を?とその大木を見上げる。 どう少なく見積もっても樹齢30年は経っていそうだ。 違います、と人形娘が指を指したのは桜の木の根元。 そこには、菜の花が桜同様に満開だった。 控え目なソメイヨシノに比べ、こちらは目に鮮やかな黄色と黄緑だ。 「桜守です」 「さくらもり?」 「はい。 菜の花が咲いていれば、大抵の人はわざわざ菜の花を手折ってまで あの下で宴会をしようとは思いません。 桜は根元の土を踏み固められてしまうと成長できなくなってしまうので、 こうして景観を壊さず、守っているのです」 「へぇ……。それを、あいつが?」 「何でも、あの桜はあそこに住んでいらっしゃるおばあ様の想い出が 詰まっているものだとか」 あまりに人形娘が詳しいので、その場にいたの?とせつらが尋ねる。 すると、人形娘は、ええ、と何故か俯いてしまった。 「私もお手伝いしましたの。 お手伝いしながら、私、桜と桜守がせつらさんと先生のようだと思いながら……」 「……はぁ……」 せつらの茫洋とした中に、呆れた雰囲気を感じ取って、慌てて人形娘が手を振る。 「いえ、あの、違います……。 先程もおっしゃっていらっしゃったでしょう? せつらさんが厄介に巻き込まれたら、先生がどこかで関係してくるけれど、 先生の事件にはせつらさんは関与しない、と。 桜は……特にソメイヨシノは、そこにあるだけで人を惹きつけます。 そして、人は守らずにはいられない……」 せつらはもう一度ソメイヨシノを見上げ、そして、人形娘を見下ろした。 小さな身体が更に小さくなってしまっている。 別に怒っている訳じゃないのだ、とアピールするために、 せつらはしゃがんで人形娘と視線を合わせた。 「人は大抵、そうあって欲しいと思うことを他人に見出すんだと思うよ。 だから態々、藪医者のことなんて考える必要はない。 僕が桜だと言うなら、この菜の花は君にこそ相応しいと思うのだけど」 せつらの言葉に、そんなはずはないのだが、人形娘の頬が 桜色に染まったようだった。 さぁ、行こうかとせつらが歩き出すと、後ろから人形娘がついていく。 その足取りが今にもスキップをしそうで、せつらは思わず微笑んだ。 明治通りを歩くと、どこからともなく、桜の花びらがはらりと舞い降りてくる。 今宵は、花見宴会も大盛況であろう。 流れる花びらの行方を追いながら、人形娘が呟いた。 「先生は菜の花というより、薔薇っぽいですよね。 高嶺の花で、触れば棘がある。 白い薔薇の花言葉は『尊敬』だそうですよ。ぴったりでしょう?」 せつらも花びらを追う。 風が吹くたびに、ほとんど白に近いそれが、雪のように降り注ぐのだ。 こんな新宿も悪くない……。 「そうかな……」 せつらは無意識に返答をしていた。 頭の中では薔薇よりももっと、医師に似合う花が薫り高く咲いていた。 「では、せつらさんはどう思うのですか?」 気軽に尋ねた人形娘はその瞬間、水晶の瞳でせつらを見つめたまま固まった。 顔も身体も何一つ先程のせつらとは変わっていないのに、 その表情、その雰囲気、まるで……―― 「届け物だ」 本人は目一杯、仏頂面をしているつもりなのだが、 良家のおぼっちゃまにしか見えない顔で、せつらは黒檀の大デスクに 持ってきたビンを差し出した。 届ける筈の人形娘は、何故か泣きそうな顔でビンをせつらに押し付け、 急用を思い出したので、これをメフィスト病院へ持っていってください、と 走り去ってしまったのだ。 受け取った方は、ビンとせつらの顔を見比べ、 何かあの娘に悪いことでも?と尋ねてきた。 至極真っ当な問いだ。 「知らないよ。 おまえが、何か悪いことしたんじゃないのか」 メフィスト病院の院長は、さて、と首を傾げた。 さらりと肩を流れる黒髪の美しさ……。 気付くとせつらのすぐ側に、白い医師は立っていた。 手を伸ばし、肩に触れ……。 ソメイヨシノ。花言葉は、『優れた美人』、と言いながら院長は、 せつらの肩についていた桜の花びらを摘んだ。 その間、せつらはずっと息を止めていた。 夢のように流れる白いケープ、どこまでも真っ白な男。 一輪で、気高く、漆黒の中でこそ輝きを増す、あの花……。 「……菜の花の花言葉は?」 小さな幸せ。 「じゃぁ、……カサブランカ」 医師は穏やかに微笑んだ。 そして、唇が動く。じゅんけつ、――純潔、と。 ”人は大抵、そうあって欲しいと思うことを他人に見出すんだと思うよ” そういうことか、とせつらが呟くと、医師は さっきから君は一体何がしたいのだねと呆れ顔で返してきた。 しかし、せつらは気にせずに、じゃあねと医師に背を向ける。 用事が済んだから、もういいだろ、といういつもの態度に、溜息が背を追う。 その溜息がせつらを追い越す前に、せつらは扉の前で立ち止まった。 そして、振り返らずにこう言った。 「……二週間前の答え。回答はおまえ次第だな」 扉を開けて、閉める。 その間に何かを言われたような気がしたが、せつらはそのまま、 長い廊下を歩いて行った。 「何が純潔だよ、バカ。 あの藪医者のことを純潔と、この僕が思ってるって?」 誇り高く咲く、真っ白な大輪。 確かに、それはその通りなのだけれど。 「もっと必死になって僕を落としてみろ、メフィスト」 ――純潔、イノセント。穢れのない、白。 それが、汚れるのを厭わず、形振り構わずにかかって来い。 ”せつら、君は何時になったら私の気持ちに応えてくれるのかね” そんな、甘い言葉は、もう要らない。 白薔薇のもう一つの花言葉は、「私はあなたにふさわしい」だそうです。 両思いなのに、何故かそれじゃ許せない、もっと愛して欲しいという強気せっちゃんを書いてみました。 リクエストありがとうございました! 2009年4月5日 いずみ遊 *ブラウザを閉じてお戻りください* |