世界が、もし *いずみ遊*












 黒いリムジンが、歌舞伎町のネオン街を切り裂いていた。
普段は信号無視や割り込みなどしようものなら、クラクションの嵐である靖国通りも、
このリムジンだけには、大人しく道を譲った。

 それもそのはず、この車は新宿区役所跡に建てられたメフィスト病院の院長、
ドクター・メフィストの車なのだ。
救急車ではないが、新宿区民は誰もが、この車がそれに準ずるものであると
知っていた。
この街で、ドクター・メフィストの恩恵を少しでも受けていない者など、ごく僅かだ。

「もう少し、急げぬかね?」

 靖国通りを右折し、車が明治通りに入った時、
リムジンの中で、天使の持つハープの音かと思われるような声が言葉を紡いだ。
ドクター・メフィスト――<魔界医師>の声だ。
肘掛に肘を置き、その手で頭を支えていた彼は、閉じていた瞳を開いた。

「少々、揺れますが」

 運転手の一言に、構わぬ、と答えて再び瞳を閉じる。
スモークガラスの窓の外を流れる景色は、一段と速度を増すが、
揺れは先ほどと何も変わっていないように思えた。
――ドクター・メフィストの運転手ならばこそ、の技術であった。

 明治通りを疾走する車は大久保通りを曲がらずに通り過ぎ、
どうやら高田馬場へと向かっているようだった。
大久保から高田馬場にかけては、魔界都市と呼ばれて久しい新宿の中でも
比較的「安全」とされる地帯である。
そのためか、夜にもかかわらず、ちらほらと観光客らしい集団が歩いていた。

 何の変哲も無い、いつもの夜だった。
その時までは。





「止めたまえ」

 ちょうど、早稲田大学の理工学部キャンパスの辺りで、
再び、静かだった車内に天からの声が降ってきた。
当初、言われていた目的地には着いていないが、運転手は何も言わず、
ただ猛スピードで走っていた車を、滑らかに、そして即座に停止させた。

「外へ出る。
5分経って戻らぬ時は、一度病院へ戻りたまえ」

「承知いたしました」

 運転手が答えた時には、すでに白い後姿が、車外へと音もなく消えていた。





 突然、ブレーキ音もなく止まったリムジンに、何事かと足を止めていた観光客たちは、
中から出てきた長い黒髪に白いケープを纏った男を見るなり、
その場に完全にフリーズした。
新宿区民ならその姿を見た瞬間に、顔を直視してはいけないと
瞬時に判断すべき人間が、この街には二人いるが、
ドクター・メフィストという名をもつ男はその一人であった。

 その判断を正常に行えても、一目その顔を、という強い欲望によって、
結果として、この観光客たちと同じ状態に陥ってしまうことは、ままあった。
生粋の新宿生まれ、新宿育ちを売りにしていたらしいツアーガイドがいい例である。

 かくして、観光客とそれを率いていたツアーガイドの塊を素通りし、
白い医師は、早稲田大学大久保キャンパスの明治門を潜って行った。












 医師は、目的地に向かって歩いていく。
その胸の内については、他人の知るところではないが、
大学のキャンパスという一種特殊な街の中を、周囲を見渡すでもなく
進んでいくので、そう想像できるというだけだ。

「こちらか」

 独白を聞くものは今や、不穏に騒ぎ始めた風のみ。
その風に乗って、漸く、ただびとにもその声が聞こえた。
声、というよりは鳴き声であった。
かつて、日本では御使いとされた、夜空に染まる鳥……鴉だ。

 メフィストは、疾走するリムジンの中で、正しくこの鴉の声を聞いたらしい。
鴉の方も、この白い医師を見つけたらしく、頭上で三度旋回した後、
その肩に舞い降りた。
よく見ればただの鴉ではない。大鴉だ。
そして見るものが見れば、更に詳しく言い当てただろう。
それは、世界随一の魔法使い、ガレーン・ヌーレンブルグが作った鴉だ、と。

「確か、君の二代目のご主人は、帰国中だとか?」

 平然と鴉へ向かって話す医師に、これまた鴉も自然に首を縦に振った。
人間の言葉を理解する鴉は、魔界都市と言えどもこの一羽しか生息していないだろう。

「そうかね。
よく知らせてくれた」

 大鴉はメフィストの肩から、58号館と書かれた建物の方へと飛んだ。
メフィストはその後を追った。





 58号館は、実験棟らしく、ナンバーを振られた実験室が廊下の両側に
続いていた。
大鴉は低く飛び、メフィストを第六実験室へと導いた。
実験室の扉は二重扉となっていたが、どちらの扉も今は開いており、
どちらの扉の鍵も壊されていた。

「っく……」

 メフィストが音もなく部屋に足を踏み入れると、
小さな子供がすすり泣く声が聞こえた。
さっと周囲を見渡して、ほかに何も異常が無いことを確認すると、
メフィストは扉の横についていたスイッチで部屋の明かりをつけた。

「い、いや!!」

 途端に叫び声が上がったが、それを沈めるようにメフィストの背後から部屋へ
飛んできた大鴉が、カァと烏のように鳴いた。

「……め、ふぃすと先生?」

 実験室の中央にある木の机の上に横たわっていたのは、
鴉と同じく、ガレーン・ヌーレンブルグによって作られた人形娘であった。
作り物とは言え、どこから見ても本物の娘としか見えない人形娘であるが、
今日ばかりは、そうとは言えない姿であった。

 軽やかにはねるブロンドの髪は、半分以上が変色し、ところどころ失われていたし、
紫サテンのドレスは破かれ、右肩から横腹に掛けては薬品で溶けたように見える。
そこから覗くはずの白い肌はなく、人間にはない骨組みが剥き出しになっていた。
誰が見ても、今の彼女は人形だった。

 メフィストは身に着けていたケープを素早く取ると、彼女の身体をそれで包んだ。
そして、全てのメフィスト病院の患者に見せる笑顔で彼女に言った。

「もう安心したまえ」

 彼女はその声を聞くと、張り詰めた糸が切れたように、ぐったりとメフィストに
身体を預けた。












「5分はもう過ぎたようだが」

 メフィストが腕に人形娘を抱きかかえ、大鴉を従えて明治通りへ戻って来た時、
黒いリムジンはまだその場所で停止していた。
運転手は、はい、と答えて、しばらく逡巡してから、それが、と続けた。

「院長がそちらから大学へお入りになった後、
正面門からこちらへ走ってきた男がいまして」

「それで?」

「この車を見た途端、血色を変えて反対へ走って行ったので、
追いかけましたら、更に逃げて、戸山住宅の方へと……。
あそこまでは流石の私でも入れませんので、戻ってまいりましたところ、
ちょうど院長が出ていらっしゃったのです」

 真夜中の戸山住宅に逃げ込んだ男の運命など、押して測るべし、だ。
永い時を生きる吸血鬼たちは、勘が良い。
普段は人間の血を吸うことを極力控え、新宿区民と共存している彼らだが、
それが犯罪者であれば……。

「そうか。
血も肉も残るまい。
明日、戸山の長を呼んで話を聞いておこう」

「はい。勝手な行動、申し訳ありませんでした」

 止まった時同様、リムジンは滑らかに動き出した。












 病院内に生き物は入れぬ。患者ではない限りな、とメフィストに言われ、
大鴉は抗議するように病院の入り口で旋回していたが、
やがて、西新宿の方向へ飛び立って行った。

 白い医師は、空いていた個室のベッドに人形娘をそっと置く。
その身体が小刻みに震えるのを見て、数度、その頭を撫でてやると、
娘は身動ぎをして、水晶の瞳を開いた。

 その途端、再び叫び声を上げそうになったが、今までのことを思い出したのか、
それでも顔を引き攣らせながら、なんとか口を閉じた。



「申し訳ないが、ヌーレンブルグ殿の力は同じ血を引く者にしか
受け継がれていない。
当院では、簡単な処置しかできないだろう」

 こんな言葉を、あのドクター・メフィストに言われたら、大抵の人間は、
自分の人生の終わりを感じるに違いない。
しかし、聞いているのは人の手によって作られた人形である。
娘は分かっています、と頷いた。

「至急、トンブ・ヌーレンブルグ殿に連絡を取ろう」

 事態は急を要するものではないが、しかし相手はチェコへ帰国中だ。
早急に新宿へ戻るように連絡した方が良いだろうとメフィストは判断したのだ。
しかし、長い髪を翻して出て行こうとしたメフィストの背に、
人形娘の待って、と声が縋りついた。

「待ってください、先生。
行かないで、行かないで下さい……」

 悲痛な声だった。
水晶の瞳から、涙が一つ零れ落ち、頬に美しい跡を残した。
美しいだけに、無残な姿が痛ましかった。

 メフィストはその顔を見るだけで病気が治ると言われる
慈悲に満ちた微笑を娘に向けた。

「君は目下、私の患者だ。
君の言うことは何でも聞こう。
――トンブ・ヌーレンブグルグ殿に連絡を頼む」

 最後は、指輪を煌かして、空中に現れたホログラムの中の
看護師に向かっての一言だ。

「先生、……いかないで、側にいてください」

 消え入りそうな声で言われ、メフィストは椅子をベッドへ引き寄せ、そこへ腰掛けた。
小さな手を取り、優しく自分の手でその手を包む。
その熱に安心したのか、人形娘の震えがようやく治まってきた。












 どれくらい手を握っていたのか、時計の無い部屋で知るすべはないが、
小一時間ほど経った頃だろう。
自分が完全に安全な場所にいるのだ、と身も心も感じることができた人形娘は
ぽつりぽつりと、自分の身に降りかかったことを話し始めた。
メフィストは、辛いなら無理に話す必要は無い、と制したが、
全部誰かに持ってもらった方が、気持ちが落ち着きますと言われ、
聞き役に回った。

「電話があったのです。
『君の主人に頼まれていた試験薬が完成した』と。
私はそのような依頼を主人がしていたことを存じておりませんでしたので、
主人が戻ってから取りに参りますと言ったのですが……」



『それでは遅い。明日には俺は海外へ出てしまう。
そんなに重いものではないので、君が取りに来てくれないか?』

『でも……』

『早稲田の大久保キャンパス。58号館、第六実験室だ。
高田馬場から歩いても、そう遠くはないだろう?
君の主人は、酷くこの薬を欲しがっていた。
帰国した時に、すでにこの薬があった方が良いのでは?』

『……。分かりました、取りに伺います』



「今考えれば、強引でした。
それに、あの電話が来る前に、怪しい男が家の周りをうろついておりましたの。
魔法街は観光客が多いですし、普段からも不埒な方が
中はどうなっているのかと覗いてくることもあるので、
あまり気にしていなかったのですが……」

 それが、この小さな娘を襲い、メフィストの運転手に追いかけられ
戸山住宅へと消えた男だった、ということか。

「実験室についたら、いきなりこう言われたのです。
『どうか、君を分解させて欲しい』
私、最初は何を言われているのか分からなくて……。
次に湧いてきたのは怒りでした。
そんなことはできません、と少し強めの口調でお断りしたら、急に」

 妙な薬品を掛けられた。
咄嗟に避けたものの、髪と右半身に大量に薬品を浴びてしまった。
そして、その場から動けなくなったのだ。

「あの男は、手に鋸を持っていました。
私を分解する、本当にその通りのことをしようとしていたのです。
今まで幾度となく危険な目には遭って参りました。
でも、ただの一度も、私は、私を人形として襲ってくる人間を見たことは
なかったのです」

 男は動けない娘を見て、満面の笑みを浮かべながら近づいて来たという。
そして、その肩に鋸の歯を当てた瞬間――

「大鴉が鳴きました。
私の後をついてきていたのですね。
その声に、男は気を取られて窓の方を向きました。
私はその隙に、なんとか動いた左手で、ありったけの物を男に向かって投げつけました」



『な、何するんだ!』

 男は投げられたものを避けながら鋸を再び人形娘へと向けた。
倒れた状態から投げつけたため、飛んでいく物体にそれほどのスピードはなく、
また、投げられるものもそう多くなかった。

 だが、反撃された男は、完全に頭に血が上ってしまっていた。
そして、娘に向かって、鬼のような形相で叫んだ。

『おまえなんか人形の癖に!
なんで人間に歯向かうんだ!!
おまえの動きも、心も、何もかも、人間様に計算されたものだろ?!』



「私は、それを言われた瞬間に、目の前が真っ暗になりました。
もう、ここで消えてしまっても良い、そう思ったのです」

 娘はそう言い、静かに涙を流した。
メフィストはその涙をハンカチで拭い、話をし易いようにこう尋ねた。

「そして、君は秋くんの名前を呼んだのだね」

「……はい」



『あきさま……せつらさん……せつら』

 一度でも良い、本人に向かって呼びたかったその呼び方を。
それさえ言えれば、後はもう……。
瞳を閉じて、鋸が振り下ろされるのを待った。

 しかし、それは振り下ろされなかった。
大きな物音を立てながら、男が部屋を出て行き、急速に遠ざかっていくのを感じた。
そして、それは二度と戻ってこなかった。



「その後は、メフィスト先生がいらっしゃってからのお話になります」

 全てを話し終えると、人形娘の顔色は、だいぶ良くなっていた。
怪我の治療は、あくまでも応急処置であったが、
ドクター・メフィスト直々の処置である。
恐怖を他人に預けることでの心理的負担の軽減と、
身体的なケアとの両方のおかげだろう。

「よく話してくれたね」

「ええ……でも」

「でも?」

「本当に恐ろしかったのは、そのことではないのです」













「人間は嘘をつく生き物です。
嘘をつかないと、生きてはいけない生き物なのです。
本能のままに生きれば、他者とのいさかいが起こります。
だから、人間は自分自身に社会性という嘘を貼りつけて、生活をしています」

 でも、その本質は、容易には隠せない。
魔女裁判、身分制度、宗教戦争、大量虐殺……。
例を挙げればキリがないほど、人間は自分とは違うものを区別し、虐げてきた。

「世界が、もし、私のような人形だらけであれば、と
考えることがよくありました。
人形が多くなれば、人形を自分とは違うものと区別した後に、
何か別の共存が生まれるのではないか、と」

 でも、そんなことはないのだと、あの男の一言で分かった。
『おまえの動きも、心も、何もかも、人間様に計算されたものだろ?!』

「人形が多くなるということは、それを作る人間が権力を持つのだと
はっきりと分かりました。
私たちの全ては、人間によって作られているのです。
それは、共存ではありません。主従関係です。
決して、逃れることの出来ない、絶対的な区別です……。
それを突きつけられて、私は恐怖いたしました」

 先生はご存知でしょうが、私は秋様を慕っております。

「秋さんを思う気持ちも、全て作られたものなのでしょうか?
もしかして、これは、秋様に従いなさいというプログラムなのでしょうか?
こんな想いをするために、私は作られたのでしょうか……」

 泣き崩れた娘を、メフィストはそっと抱き寄せた。
彼女に伝えるべき言葉を持っていたが、それはメフィストが言うべきことではなかった。













 メフィストが、人形娘の周囲にうろつく不審な男についての情報を得たのは、
実は遡ること一ヶ月も前のことであった。
情報源は、西新宿のせんべい屋だ。
普段からお世話になっている人形娘のことを心配したせんべい屋は、
その男を捕まえて、恐怖心を植えつけるような大分酷い忠告を行ったという。
人形娘に伝えなかったのは、何も起こる前に変な不安を与えたくなかったからだ。

「君にしては、随分、優しいんだな」

 メフィストがからかうと、せんべい屋は、僕はいつも優しい、と嘯いた。
ただ、と少し深刻な顔をする。
何かね?とメフィストが問うと、せんべい屋は妙な三段論法を話し始めた。

 曰く。
彼女は僕を慕っている。
僕はね、思うんだけど、基本的には生きている物は自分と同じ種のものしか
愛さない。
三段論法でとくと、
大前提、人間は人間を愛する
小前提、彼女は僕を愛している
結論、彼女は人間である。
これって、素晴らしい考えだよね?

「その割には深刻な顔だが……」

 せんべい屋は深刻な顔のまま、メフィストの肩を抑えてベッドへ沈み込ませてゆく。

 深刻だよ。
だって、僕は今、二人の人間に愛されている。
これからどっちかを選ばなきゃならないんだから。

「……」

 メフィストの何とも言えない顔に、せんべい屋は思わず噴き出した。
そして、笑いながらこう、続けた。

 今度会った時、彼女にこれを言ったら、彼女はきっと言うよ。
世界が、もし、私のような人間だらけになったら、って。
きっと藪医者だらけになるより、ずっといい世界になるに違いないね。















 明日の朝には、ふてくされた大鴉がせんべい屋を連れて、
彼女のお見舞いにやって来るだろう……――

















黒白を表現するために、せっちゃんに魔界医師風味に登場していただきました。
暗い話のまま終わってしまうこともできたのですが、人形娘の幸せを願う人がたくさんいることを
思って、せっちゃんに救ってもらいました。
リクエスト、ありがとうございました!


2009年4月1日 いずみ遊




*ブラウザを閉じてお戻りください*