anytime, anymore *いずみ遊*
目を開くと、真っ白な天井が、
蒼い光を柔らかに反射していた。
ふわふわのマットと、ふかふかの掛け布団まで見なくとも、
自分が何処にいるのかが知れた。
右耳の上の辺りに微かな違和感がある。
ちょうどそこへ、数万ボルトの電流が流れたのは、
一体何時間前のことだったのか。
せつらは、それを知ることよりも、再び瞳を閉じることを選んだ。
次に目が覚めた時、そこには天井の代わりに、
人の顔があった。
長い睫毛が頬に影を落とし、薄い唇は少女のように紅い。
細部だけをとっても、溜息がでそうなくらい美しい、
ドクター・メフィスト、その人である。
二回瞬きをしてから、せつらは白衣ならぬ白いケープの医師に
手を伸ばした。
「天国か?」
「残念ながら」
メフィストの力を借りて、上半身を起こし、
せつらは時間を訊ねた。
倒れてから、丸二日眠っていたらしい。
また、一から人捜しを始めなければならないだろう。
この仕事は、たとえ3分でも無駄にはしてはいけない。
「また死に損ねた」
せつらがそう言うと、メフィストは、何処か物悲しげな顔で
瞳を伏せた。
ブラインドからは、夕日が差し込んでいた。
それから、看護師がやってきて、簡単な検査を行った。
院長直々の治療で異常などでるはずもなく、
カルテには、数行、検査結果が書かれるに留まった。
そして、患者は訊ねた。
「何時までここにいなくてはならないのかな」
医者は答えた。
「君が望むなら、何時まででも」
――患者は、患者でなくなることを選んだ。
街灯の明かりがつき始める頃、せつらは中央公園の近くを
歩いていた。
ぐるりと一周してみたくなったのは、決して家に帰るのを
躊躇っているわけではなかった。
深い深い木々を覆う、厳重なフェンス。
そんなものがなくとも、常人は漂う妖気に、
こんなところへは近付かない。
奇麗にアスファルト舗装された道路は、
安全の印だった。
何処かで、犬が遠吠えをしている……――
「つれないな」
黒いコートに袖を通しているせつらの背へ、
呟いた医師の声が蘇る。
どっちが。
そう叫びだしそうになって、せつらは代わりに
込み上げてきた苦い唾を飲み込んだ。
それは、過去の記憶だったか、今現在だったか……。
「ご気分でも悪いのですかな?」
気が付くと、老人が自分の顔を覗き込んでいた。
せつらは知らないうちに、随分と長いことそこへ立ち止まっていた
らしかった。
煌々とつく街灯も、安全の印。
せつらは老人に微笑みかけると、大丈夫です、と
片手を挙げた。
「気分はいつも最悪ですから」
――そう、主治医面した、謎だらけのお医者様のお陰で。
その日、予定にあった全ての手術を終え、
医師は、院長室へと戻ってきた。
そして、そこで奇妙なものを発見する。
「……」
黒檀の大机の上に、血のついたナイフ。
それは、何もかもが整然としたこの部屋に、
投げられた一滴の異質物。
「自らを傷つけたものを患者と呼ぶべきか」
「だったら、答えを教えてくれよ」
まるで死人のような声が返って来た。
医師は驚きもせず、ソファを振り返った。
黒い山がむくりと起き上がる。
「答え?君自身が知っていることを、
わざわざ私が教えることがあるのかね?」
血だらけの堕天使は、ひどく嫌そうに顔を顰めて、
そしてそっぽを向いた。
「おまえなんか大嫌いだ」
医師は、紅い華の咲いた左手をとった。
「せつら……」
「大嫌いだ……」
重なる唇。
光など、届かない。
「患者を傷つける医者は、藪に違いない」
堕天使が、神の罪を告発するがごとく、
せつらは、医師に永遠を要求した。
医師は恭しく頭を下げて、こう言った。
「愛しているよ。
だから、自らの躯を傷つけて、
私を試さないでくれたまえ」
――本当は、どっちがしたいのか、分からない。
自分を傷つけたいのか、
傷つけておまえの傷を測りたいのか。
あるいは……
ただ単に、おまえに愛されるという痛みを
味わいたいだけだったのかもしれない。
いずみ遊 2004年3月23日
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