風が吹けば *いずみ遊*









「医者が来れば、せんべい屋が潰れる」

「なんですか、それ」

「今、考えた素晴らしい教訓」

 桜の開花も近い、三月の後半。
西新宿の老舗のせんべい屋において、
店長と、配達帰りのバイトの間に交わされた会話は、
しごく、平穏なものであった。















 ――ことの始まりは、一週間前に遡る。

「何しに来た」

 六畳の和室で、突然振り出した雪の寒さを
億劫でしまい損ねていたコタツでしのいでいた
せんべい屋の店長、もとい秋せつらは
来客者を一瞥もせずにそう言った。
扉が開いて閉まったとも見えなかったが、
そこには忽然と、白い医師が立っていた。

「往診の帰りに寄らせてもらった」

 医師は外の冷気をとどめた、冴え渡る美しさのまま
畳に腰を下ろした。
黒い髪は、春の雪に艶やかに濡れ、
医師の頬は心なしか紅い。

「別に、招いてないし、上がっていいとも言ってないが?」

「そのようだな」

 医師は、自らのケープにすっと、その国宝級の彫刻のような
指を滑らせ、何かを摘むような仕草をした。
せつらの眉が僅かに動く。

「その割には、私のことをずいぶん知りたがっているようだが」

 常人にはたとえいくら目を凝らそうとも見えなかったが、
医師の指には、チタン合金で作られた糸が摘まれていた。
それは、数日前、せつらが健康診断を受けたときに
ひっそりとこの医師に忍ばせていたものだった。

「ああ、知らなかった。そんなところに」

 平然と、せつらは言ってのけ、医師もそれ以上は何も咎めなかった。
それだけでも、驚くべきことではあったが、さらに

「百人町の淺川医院」

 と美しい唇が紡ぐに当たっては、最早誰にも理解できぬ
この二人の独特の呼吸としか言えなかった。

「まいど」

 せんべい屋が茫洋と呟くと、医師は再び音も立てず立ち上がった。
流れる白いケープの美しさ。

「お茶くらいなら淹れるよ」

 どういう心変わりか、せつらがそう言った時、
医師は肩越しに振り返り、こう返した。

「医者が泣けば、せんべい屋が喜ぶか」

 奇妙な呟きだけを残して、ドアは閉まった。














「それにしても、奇妙でしてねぇ」

 たとえ生きて辿り着けたとしても、自力で帰ることなど不可能と
言われる、メフィスト病院院長室で、
よれよれのコートを着た刑事が、にやりと唇を歪めた。
それが、この病院の院長の前だと知れば、
誰でもこの刑事が、ただ者ではないと分かるだろう。

「何がかね?」

 玲瓏な月のごとき顔を、刑事の方へ向けながら、医師は尋ねた。
せんべい屋との奇妙な会合から、三日目のことだった。

「どう考えても、百人町の淺川医院が狙われる理由が分からない。
しかし、そこは秋せつら。よもや狙いを違うとは思えない。
……ドクター、奇妙でしょ?」

「私には何のことを言っているやらさっぱりなのだが、
これは新手のなぞなぞか何かかね?朽葉くん」

 刑事はトレードマークの短いしんせいを唇に貼り付けたまま
いやいや、と大げさに手を振った。

「ドクターには何でもお分かりでしょう?」

「さて」

 いくら腹のさぐりあいをしても、新宿一の名医は折れそうにはなかった。
もとよりそんな期待を刑事はしていなかったし、
それに、そんなことは、長年新宿で刑事などしていれば、
ほぼ確信として分かってしまうものなのだ。

「医者が泣けば、せんべい屋が喜ぶ
……どうです?私の考えた格言。
結構、的を射ていると思いませんか?」

 三日前、人の良さそうな顔でにっこりと同じ言葉を言った刑事は、
今日は瞳をくるりとさせて、院長室を後にした。
――別に、新宿一の名医に、情報漏えいを唆したなんて、
調査書には書かなくてもいいことだった。











 さて、一週間後。
首尾よく百人町で副業の仕事を終え、のんびりと
本業のせんべい屋に精を出していたせつらの前に、
黒塗りの車が止まった。
ざわめく店内。
せつらは、盛大に溜息をついた。
――医者が患者を生んでどうする気なんだ。
ドアが開かれ、白いケープが……。

「医者が来れば、せんべい屋が潰れる」

 それは、数分後、バイトも頷かざるをえなくなる、
真実であったようだ。










冒頭のせつらの言葉が思いついて、それにまつわる話をと思い
このような形に。
久々に原作を読んで、二人の親密な関係ににんまりしていた
私なのでした。
いずみ遊 2004年3月20日



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