夢にて見えん *いずみ遊*









 春分の日が過ぎたからと言って、唐突に温かくなるわけではない。
真冬よりは幾分かマシになったが、やはり冷たい布団に滑り込みながら
せつらは思った。
勿論、この<魔界都市>に春らしい春が来ると考えてはいないが、
毎年、何処かしら「普通の春」を期待してしまう。
此処では桜も紅葉も同時に見られるというのに。

 ぼんやりと霞が掛かった月が窓辺から見える。
障子を引くのを忘れていた。けれど、今更布団から出るのは億劫だ。
妖糸を伸ばして、ゆっくりと引き戸を閉める。

 これで、やっと眠れる。
少し、足が冷たい。
交互に反対のふくらはぎに足の裏をくっ付けて、温める。
と、電話が鳴った。
障子を引くのですら面倒だったのだ。
電話になど、出る気はさらさら無かった。
依頼なら明日にしてくれ…。

 Turrr……

 どうやら、家の電話ではなく、携帯電話らしい。
今、せつらは人捜しの依頼を抱えてはいなかった。

……!

Turrrr……バシッ。

「……はい」

 布団から思いっきり手を伸ばした、あまり見せられた格好ではない状態で
せつらは携帯電話を掴んでいた。

『メフィストというものだ。
……眠っていたのかな。起こして済まなかった』

 背筋を甘い痺れが走る。
確信、というほど立派なものではないが、電話を取る瞬間、
確かに彼からの電話だという予感があった。
せつらは知らず、携帯電話を握り直していた。
そうすることで、相手の吐息を感じるわけでもないのに。

「いや、寝ようとしていたところだ。……布団から出るのが億劫だっただけで」

 正直に述べると、電話の向こうで細切れにされているはずの声が、
恐ろしく魅力的に笑った。
周りが少し騒がしい。
院長室からの電話ではないらしい。

「何処にいるの?」

『往診の帰りだ。もう直ぐ君の家の近くを通る』

 何時ものリムジンではなく、徒歩で帰っているらしい。
ドクター・メフィストらしからぬ、といえばらしからぬ、
けれど、彼らしいと言えば彼らしい行動だった。
成る程、それで月が霞がかっていたのか。
せつらは、そう納得した。

「……ねぇ、どういう意味?」

問いかけながら、せつらは何と甘い声を出しているのだろう、と苦笑した。
この間会ったばかりなのに、何処かで彼を求めている。
捨てられた子猫の様に。

『態々、院長室に戻らなくとも、私が安眠できる場所が
近くにあったな、と思い出してな』

「それは、初耳だよ」

 また、微かに笑う気配が伝わる。
仕事帰りのお医者様は珍しく機嫌が良い様だ。
せつらは布団を胸元まで引き上げた。

『せつら』

「何?」

『会いたいよ』

「……うん」

 布団に横になりながら、せつらは急激な睡魔に襲われた。
心地よい。
このまま瞼を閉じれば、素敵な夢が見られそうだった。

「……鍵なら開いてるよ」

『無用心だな』

「誰のために開けてると思ってるんだ…」

 家が無い何処かの誰かさんが、帰って来られる様に、
何時もドアは開けてある。
それを、メフィストも知っているのだ。





 欠伸を一つ。
せつらは下がってくる瞼との戦いを放棄した。

「メフィ……眠いから、切るよ」

 苦笑。
けれど、眠いものはどうしようもない。
人間が生きていく上で欠かすことが出来ない要素なのだから。
――それは、僕にとってのお前のように。

『願わくば、衣手を折り返して眠っていてくれるとありがたいのだが』

「……ん……それは、何時ものこと……」

 色っぽい言葉をさらりと受け流して携帯電話を折りたたんだ。
着物など勿論着ていないせつらは、もっと直接的に、メフィストの願いを聞き入れた。
少し寒いが、直ぐに温かくなる。





 家主が言ったとおり、鍵の掛かっていないドアを開け、
メフィストが部屋に入って来たのは、それから五分後だった。
ぐっすりと眠っているせつらと、ちょこんと折り返された掛け布団を見て、
世界一の医師は、眩暈がする程、穏やかな微笑みを美しい唇に乗せた。

「勿体無くて、入れぬな……」






 平安の世。
深窓の姫君は、夢で愛しい人に逢えるよう、夜毎、呪いをした。
”夜の衣を返して”寝てみたり、”衣手を返して”寝てみたり。
――それは、つまり、誘いの擬似形。

夢で逢いたい、というのは、
”愛しい人の魂よ、飛んできて私の褥に入って”と呼びかける気持ち。
ならば、どうして態々、着物を裏返しに着たり、着物の袖を捲くるのかって?
考えて御覧なさい。
あなただって、愛しい人を褥へ誘う時、掛け布団を”折り返して”誘うでしょう?














この間読んだ本にいたく感激したので。普通に白黒を書くと、激甘か
切ないか、のどちらかだと最近気付きました。  いずみ遊 2003年3月19日



*ブラウザを閉じてお戻り下さい*