*『ソロモンの指輪』本編の結末に触れる記載があります。 陸さんのサイト 『朔』から本編(リレー小説)をご覧いただけますので併せてどうぞ。 まひるの月 *いずみ遊* ステンドグラスが和らげた夏の日差しが男の手元を照らしていた。 既に二時間にも渡り、宇宙の真理にまで続くかと思われるような難解な数式を解いているのは、 後にここから遠く離れた街で<魔界医師>と呼ばれることとなる男であった。 万年筆は滑らかに進むものの、いくら経っても本人の納得のいく解には辿り着かないようだ。 静寂に包まれる図書館は、黴に浸食された古代書をピンセットで丁寧に剥がしている者や、 聖書のエピソードを平民に分かりやすく説いていると見せかけて異教の教えを暗号化して紛れさせた本を舐めるように見る者など、この数時間で大きな変化はなかった。 ここは訪れる者の気が済むまで知識と場所が無償で提供される場である。 何時間、数式と向き合っていようと、誰の目にも留まらぬはずだった。 最初の等号を書いてからちょうど二時間と十一分後のことだった。 「ここ」 声と共に男の前に現れた手は、彼がペン先を置く二ページ前のある記号を指していた。 「読み間違えているわ、秀才さん」 鮮やかで懐かしい青の指先から腕、肩までを丁寧になぞり、男――メフィストが二時間十二分ぶりに上げた目線の先には、肩にようやく届いた黒髪が軽やかに揺れる一人の女が立っていた。
「あれはドクトル・ファウストお得意の技なのよ」 真夏のピークは過ぎたとは言え、日陰のないベンチは不人気であった。そこへ進んで座ったのは件の女。 女の指摘通りに記号を正しく読み替えると、糸の絡まりがほどけるようにあっけなく解が求められた。 解答もさることながら、そこに至るプロセスがあまりにも美しかったので、メフィストは新たな紙を用意して、 今度は一度も誤ることなく数字と記号の羅列を書ききった。 それを横で見ていた女は、休憩でもしたらどう?とメフィストを外へと誘った。 「人間、誰しも集中力が途切れる瞬間が訪れる。 その隙に、ああやって絶対に間違わないと思い込んでいるものが、勝手に間違ってしまうの。意思を持ってね」 はい、とメフィストに差し出されたアルミ製の容器からは、からんと涼しげな音がした。 受け取りながら、自らの師の名前を口にした女を改めて見る。 おそらくは同じ大学の学生なのであろうが、一度もこのような者を見たことがなかったためだ。 その視線に気付いた女はにこりと微笑んで自分の名を告げた。 「シビウ。貴方の兄弟子、とでも言うのかしら?」 ドクトル・ファウストを教授とする、学生が五十名ほどの大学が図書館の近くにあった。 その名を”歩行者の語らい“という。シビウもメフィストもまだ一学生にしか過ぎなかった。 午後三時。傾き始めた太陽が、それでも容赦なく地上に降り注ぎ、蝉は揚々と鳴いていた。 ふと、メフィストが自分の持っている紙の束を天に翳し、シビウの頭上に小さな日陰を作った。 ありがとう、と微笑んだシビウが、後にドクトル・ファウストから“女面のサタン”と呼ばれるなど、この時点では誰も想像し得ないことであった。
雲のない夜空に月が冴え冴えと煌めいていた。 白銀の冷酷さを持って、他の星々を圧倒する明るさだった。 「こんな夜は出歩くのがひどく億劫だ」 魔界都市と呼ばれて久しい新宿の、西の方でひっそりと(と本人は考えている)せんべい屋を営む店主は 夜にしか訪れない客にそう愚痴った。 「そうですか?私は好きですよ。満月の夜は空を飛ぶのも気持ちが良いです」 爽やかに微笑む口元から覗くのは乱杭歯。戸山住宅の住民の証だ。 魔界都市<新宿>とは、吸血鬼と人間とが共存する、世界にも例のない都市である。 「僕は全然、気持ち良くなんてない。夜中、ずっと藪医者に監視されている気分だ」 不愉快だ、と眉間にしわを寄せながら、ぱりと厚焼きを齧るせんべい屋に、戸山住宅の若き長はああと納得した。 闇を照らす強く白い光は<区民>に一人の人間を思い出させる。 ドクター・メフィスト。<魔界医師>を。 「それはいささか、ドクターが気の毒な気もしますが……」 「あいつが気の毒なんてことはない」 ぴしゃりと言い切るも、あくまで茫洋とした“良いとこのお坊ちゃん風“なのがせんべい屋の「味」である。 満月のような厚焼きを食べながら言われてもなぁと、戸山の長は青いマントで緩んでいく口元を隠した。
それよりも前のこと この世に<魔界都市>と呼ばれる街が生まれる少し前のことだ。 満月に近い月齢ではあったはずだが、この日は月は夜の帳に覆い隠されていた。 「この指輪……」 年月を数えるような無粋なことをしない間柄であったのもあるが、 出会いから正確な時間も分からなくなった頃のことだ。 火照った体を冷たいシーツに横たえて、シビウはメフィストの指に煌めくその金属に指を這わせた。 「妙なものを隠している……抑えている?」 「患者からの預かり物だ。中身にさして興味はない」 倫敦の霧は今日も濃くたゆたい、道路も人も家もその輪郭を有耶無耶にしている。 窓の外はまるで異世界へ通じているようだ。 時々近くを通る車のヘッドライトが四方へ拡散して、僅かながらの明かりを薄いカーテン越しに室内へ届けた。 「また何処かへ行くつもりね」 次は断定だった。 メフィストは隣に寄り添うシビウを見て、そうだと告げた。 「私を必要とする場所がこれからできる。君も訪れたことはあるまい。遠い東洋の都市だ」 長い睫毛が二回、上下した。 シビウのしなやかな腕がメフィストに伸び、その頭を掻き抱くようにして唇が触れ合った。 「貴方は何処にいても誰かに必要とされているように見えるけれど」 「君のように個人的趣味や嗜好に医学を使っていないからな」 「そうかしら?貴方の趣味嗜好が単に、多くの人間が望んでいるものと近しかっただけでしょう?」 メフィストは微笑を浮かべて、今度は自らシビウに口付けた。 「流石、我が兄弟子」 「貴方、それを言う度に私を見下しているようだわ」 「それは半分正解で、半分は間違っている」 「なら、何処で間違ったのかしら?絶対に間違わないと思うものを」 「間違ってなどいない。あの日以来、私は一度も間違ったことなどない」 「なら……!」 「シビウ」 熱を帯びた声音が言葉を押し留めた。 「最後の夜だ。お別れを」 再び重ねられた身体を、一層深い闇が包んだ。
何の変哲もない老人と全身黒衣に包まれ口元だけが露わになった――それでもそうと分かる――女の二人組が靖国通りを歩いていた。 「弟弟子に会うのはあれ以来かのう?」 好々爺が横を歩く女を見上げる。 「それが何か?」 「この歳になっても、他人様の恋愛沙汰は楽しいものじゃ」 ふぉっ、ふぉっと続きそうなこの老人こそ、ドクトル・ファウストである。 「何処に目をつけていらっしゃるのかしら。あの男の嗜好をこの街の人間全員が知っているのに」 かのドクトル・ファウストに辛辣な返しをした黒衣の女は、ファウストに最も憎まれた弟子、シビウだ。 憎まれていると言われつつも、こうしてファウストのお供として選ばれるのは、 かつての弟子たちが長い年月で自らの技術を失っていく中で、未だ高いレベルでそれを維持、向上させているからに他ならない。 弟子の冷ややかな言葉にファウストは声を高らかに笑った。 何事かと通行人が数名振り返り、興味を失ってすぐにその視線を元へ戻した。 「あの男。秋せつら、と言ったか。人捜しの依頼をしに出向いたものの、確かに男が惑うのも頷ける奴じゃ。 しかし、あれはあの男の半分か、もしくはそれ以下の姿にしか過ぎぬようじゃ……」 瞬間、ファウストの瞳が妖しい煌めきを見せる。 姿こそ平々凡々ではあるが、確かにこれが偉大なる医師、学者、魔道士たちを育てた男であった。 二人は靖国通りから左手の<旧区役所通り>へと曲がった。
兄と人捜し屋が決死の戦いをしている頃、ポルガラは「昔の女」に抱かれて空を飛んでいた。 何処かへ連れて行かれているようだが、もう無駄だと思った。 この街へ来てから日に日に欠けて行く月を眺めていたが、それももう小さく滲んでいる。 自分の命が幾何もないことを、感覚で悟っていた。 兄は行方をくらませてから、意識を繋げてこない。だから、逆にポルガラの意識も兄には伝わってはいかなかった。 生まれてから初めて、本当に「独り」であった。 「何故助けようとするの?私は死ぬのに」 見上げると「昔の女」――シビウは眉を潜めた。風に舞い、顔を覆っていた布は肌蹴ている。 自分を抱いている女がとてつもなく美しいことをポルガラはこの時知った。 「妙なこと言わないで。人間は皆、死ぬのよ。 そんなこと言ったら、全世界の医者が意味のないことをし続けていることになるわ」 シンハの指輪のレプリカが消えたと聞いた時、ポルガラは、何の感情も抱かなかった。 今日は晴れです、と言われた方がまだ心が動いたかもしれない。 自分を愛していたという男の最期だったが、その程度だ。 誰かの死を考えたことはもちろん、自分の死も深くは考えたことはなかった。 「死とは孤独?」 「死んだことないから知らないわ、そんなこと」 「生きるとは?」 「死んでないことでしょ」 「……じゃあ、愛とは?」 シビウはポルガラを見た。 「絶対に間違わないことよ」 返ってきた答えにポルガラは力なく微笑んだ。 確かにシンハは絶対に間違わなかった。 ポルガラのための最善の方法と信じて、自分の命を差し出した。 兄もまた、ポルガラのために彼自身には必要のない戦いを挑み続けている。 兄とシンハと。 近くにあった愛の大きさと尊さを死ぬ間際になってようやく理解し、感じ取る自分は、一体何だったのか。 「貴女が羨ましい」 「それ以上喋らないで。保たないわ」 「夜に浮かぶ月を見れば……何処にい……ても、貴女は愛を……感じられ……」 シビウは音もなく地面へ降り立った。 ドクトル・ファウストが待つのはもうすぐそこだった。 ずしりと重みを増すポルガラの身体を今一度強く抱きしめて、誰にも言ったことのない言葉を、どこか自分に似た彼女に告げる。 「違うわ、ポルガラ。 あの人は暗闇を照らす月ではないわ。私の中で、彼は変わらず、夏の日差しの中にいるの」 出会った日のまま。
「女という生き物はくだらぬ」 後に続く言葉をシビウは知っている。 絶対に間違わないためのまじないだ、と遠い日に聞いた。 ――ただ一人を除いては。
2014年03月16日発行 『ソロモンの指輪 完結編』収録
2014年09月23日加筆修正 メフィスト先生はよく、「夜空に浮かぶ満月」のイメージで描写されると思うのですが、 通勤時にぼんやりと青空に浮かぶ白い月を見ていたら 「私の書くメフィスト先生の愛ってこういう感じだよね」と思って。 そういうのを実はシビウ先生しか感じていないとか胸キュンだよね! と謎のテンションに。 あいかわらずメフィ×シビウ推しですが、気に入っていただければ幸いです。 いずみ遊 *ブラウザを閉じてお戻りください* |