水の比熱大なり金属の比熱。 高校の物理教師がチョークで黒板に書き記した文字を覚えているような気がするのは錯覚だ。 何故なら、西新宿のせんべい屋――秋せつらは授業などまともに聞いておらず、 ほとんどの時間を校庭を眺めることに充てていたからだ。 比熱 *いずみ遊* 五月雨、という名の雨を持つ国で、何故ゲリラ豪雨という無味無臭な単語が生まれたのか不思議でならないが、 そうとしか表せない集中豪雨が日本各地を席巻していた。 黒々とした雲が頭上を覆い尽くしたかと思うと、大量の水が叩きつけてきて、街は瞬時に白く霞んでしまう。 制服を着た学生が学校指定の鞄を頭にかざし楽しげにファストフード店へと駆けていく。 ひらりと舞うはずのスカートが、しとどになって変色していた。 「異常気象なのかこれが正常なのか、判断がつかなくなるくらいには日常だよね」 大通りに面した立ち食い蕎麦屋はこれまた格好の雨宿りの場で、外回りのスーツ姿で埋め尽くされていた。 ただ一点、店奥の壁とカウンターに挟まれた空間を除いて。 立ち食いの名を店先に掲げているにも関わらず、意識朦朧とした店主が差し出してきた簡易椅子に腰掛けるのは、 この世のものとは思えぬ美しい華二輪。 魔界都市と呼ばれて久しい新宿で、彼らを知らぬものはいない。 そう。秋せつらとドクター・メフィストである。 店の奥に彼らの姿を見ると、ぎょっと立ち竦む客もいたが、外はこの雨である。 背に腹は変えられぬと、自然、皆、二人をいないものとして意識の外へ追いやってしまったらしい。 故に、混み合った店内は、天気の話題を口切に見知らぬ者同士が会話を始め騒然としていたが、 店の奥だけは誰も近寄らず、不自然な空間がある状態となっている。 「平均を取って基準を作ったところで、それが正解だと納得するかどうかはまた別の話だ」 「まあそうかもしれないけど……」 すでにせつらの眼の前に置かれた丼は汁を残して空であった。 メフィスト病院での定期健診の際、食事でもいかがか、と尋ねられたせつらが指定したのが この立ち食い蕎麦屋だった。 古ぼけた店構えや汚れた壁紙は、逆にその店が長期に渡たりその場所で愛されてきた証となっている。 無論、その所為で新宿の二大魔人とも呼べる二人を一度に受け入れるはめにもなっている。 「さて、帰ろうかな」 あくび交じりにせつらが宣言すると、店内の人間が全員、外を振り返った。雨。 「お送りしようか?」 「いや、結構。これ以上、身体が持たない」 意味深な言葉に、外を向いたまま首を回せなくなった客と店主をよそにせつらは席を立った。 そのまま一歩を踏み出しかけたところで思い出したようにメフィストを振り返った。
乱れたシーツの皺を指で辿っていた指をやんわりと掴んだ手があった。 背を長い黒髪が滑り、せつらの両腕がぞくりと粟立った。 「そんなに退屈かね?」 枕に押し付けていない方の耳に直接、吸いこまれるのは蠱惑の声。 数分前の醜態を思い出し、せつらはいやいやをするように枕に顔を押し付けて首を横に振った。 「なら結構」 満足げに頷き、メフィストは体勢を元に戻してベッドに腰掛けたままコーヒーを口にした。 一糸まとわぬ姿で熱い物を飲むのは止めた方がいい、とせつらは常々思っているのだが、 たとえ彼が千分の一ミクロンの糸でカップを真っ二つにしたとしても中身を零すことはないトリックを持つ男なので、 とりあえず自分に害はないと判断してそれを実際に口にしたことはない。 言ったところで止める男でもあるまい。 熱いコーヒーに冷たい手。 せつらは突っ伏したまま、しばし思考を停止させた。 熱は高い方から低い方へと流れるのが理。 普段は三途の川の向こう岸にある遠い学生時代の記憶が蘇る。 『水という液体は熱し易く冷めにくい性質を持っており……』 秋せつらにとって授業の記憶は、揺らめく木漏れ日と流れ行く雲とともにある。 せつらは思考の流れゆくままに口を開いた。 「これ……」 枕に顔をうずめたまま、せつらは捕えられたままの指を手ごと裏返して捕獲者を捕獲、 親指と人差し指でメフィストの中指の付け根――そこに収まっている指輪を掴んだ。 片手にコーヒーカップを持ち、片手を捕えられては、流石のドクター・メフィストも身動きができない。 カップをサイドテーブルに置いて、せつらの方へ体ごと向き直る。 「何かね?」 「これが一番嫌だ」 せつらの手が今度はメフィストの指を辿る。指輪を引き連れて。 節の目立たない指からは、ほんの少しの抵抗があったのみで、あっさりと外れた。 「ずっと冷たいままだ」 「せつ……」 「これだけ、完全におまえのものじゃない」 「嫉妬かね?」 笑いを含んだメフィストの問いに、くぐもった声が返す。 「嫉妬だよ」
『私は、君を治療しに来た』 『それがファウストの指示か』 『いや。単なる希望だ。それも、君が望まぬのならば為せぬことだが』
「その指輪は出会った時から今現在に至るまで、私の患者である者からの預かりものだ」 落ちてきた唇は想定通りコーヒーの香りがした。 息が詰まるという素振りをして顔の角度を変え、せつらはその唇を受け止める。 「その口調からして、そいつは男だね」 至近距離のメフィストは瞬きを一つして、そしてにこりと微笑んだ。 それだけで失神者続出の魔笑である。 せつらも負けじと(と思ったかは誰にも分からぬことだが)微笑み、見せつけるように抜き取った指輪を自分の口の中へと放り込んだ。 金属と歯がぶつかり、きん、と明徴な音が響く。 誘うように舌先に指輪を載せて見せると、誘われた白い医師は恭しくお辞儀をするように身を屈めて再度の口付けを行う。 二人の息遣いとたまに指輪がどちらかの歯に当たってはじける音が、指輪を隠したせつらの口内を満たした。 追いかけっこの必然として、追いかけられる方はみるみるうちに追いつかれる。 最初は余裕だったせつらも、次第に息が激しく乱れ、飲み込めなかった唾液が、つ、と首元へと垂れた。 結局、あまり奥へ隠しては飲みこんでしまいそうで、あまり前に出せば簡単に取られてしまいそうで、 微妙な操作を要求されたせつらが根を上げて、ギブアップ、とケープの胸元を軽く叩いて知らせる。 「舌が攣りそうだ」 垂れてしまった唾液を唇で辿った後、メフィストは無言でその指をせつらの口の中へ突っ込んだ。 「ん……」 舌をつままれ、優しく引っ張られて思わずせつらの声が出る。 味覚を司る繊細な器官は、刺激に弱い分、快楽と繋がっているのだという余計なことを身を持ってせつらに教えたのは、何を隠そうドクター・メフィストであった。 「前から言っているように、いちいち私の患者に嫉妬していては、身体がいくつあっても足りるまい」 「……っん、あ……」 舌の裏側から先端までをなぞられ、喘いだせつらの口から、難なくメフィストは指輪を取り出した。 悔しげに睨むせつらの瞳は快楽に揺れ、全くもって説得力がない。 「しかし君の言う事にも一理ある」 持ち主――否、預かり主の元へと戻った指輪はより一層、輝いていた。 せつらがメフィストと出会った時には既にそこにあった指輪だ。 「この指輪は冷たい。金属は大抵、冷たく感じるが、これは熱を保持することを全くしない特別な物質からできているらしい」 「らしい?おまえにも分からないことがあるんだ」 「遠い昔のことだ。聞いたのちに忘れてしまったのか、そもそも聞いたのかも分からぬ」 患者に関することを忘れることがあるのか、問いたい気持ちはあったが、 また「無用な嫉妬をするな」と言われるのが定石なので、せつらは「ふーん」と呟くに留まった。 もう話は終わり、というようにメフィストがサイドテーブルに置かれた陶器のスタンドライトの灯りを消した。 それと同時にどこからともなく部屋をほの暗く照らしていた光も消滅し、部屋が暗闇に占拠された。 「水の比熱大なり金属の比熱」 「何かね?」 「思い出した。高校の授業で、そんなことを言っていた教師がいた」 「男かね?」 「……その確認いる?」 「少し気になっただけだ。君が学生時代の話をするとは珍しい」 「その指輪は、比熱が水よりもずっと大きいということ?」 「そうなると言っても良い。水に手を浸ければ、手は冷たく感じるが、そのうち、水も体温によって温められ、究極、体温まで水温が上昇する。この指輪はそれがない」 「要するに……」 せつらはメフィストの手を取り、自分の眼の前に翳す。 「この指輪は永遠に、熱を奪い続ける」 自分が口にした言葉の意味を自分自身で解釈するよりも前に、せつらは暗闇の中でメフィストが笑みを深くしたのを感じた。 危険信号が頭の中で点滅を始めた時にはもう、手遅れだった。 空調が急に壊れたのかと思った。 外気をそのまま取り込んでいるかのような暑さと湿気が部屋に充満している。 汗が止めどもなく流れ、濡れた背中にシーツがまとわりつく。 メフィスト病院の空調設備に思いを馳せたことは未だかつてないが、 それはつまり、一年中、一定の室温と湿度を保って管理されているからに違いない。 ましてや、院長室で、こんなことがあるはずがない。 「あつ、い……メフィスト」 普段は「本当に血液が通っているのか」と疑うくらい冷たいメフィストの肌も、 今は自分と同じ体温を持っていて、触れ合っている個所から汗が滲んでくる。 不快感から逃れたいのに、下半身を繋ぎ止められ、反対に快感を与え続けられる。 頭が奥の方からぼうっとしてきて、熱に浮かされたようになる。 空調をと最初の方は言えていたが、喘ぎ声が混じり、そのうち自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。 「君があまりに可愛いことを言うから」 最後に気を失ったせつらの汗やら何やらの体液をタオルで拭いながらメフィストがひとりごちた。 せつらが目を覚ます様子もない。もう、夜が明けかけていた。 「こちらは私から熱を奪い続け、君は私へ熱を与え続ける」 すぅと穏やかな寝息を立てる唇に、口付けを一つ。 「……しかし、君がこの指輪を気にするということは、もしや近いうちに……」 ドクター・メフィストの脳裏に浮かんだある考えが、現実になるのは、また別の話だ。
目覚めた時、定期健診を言い出したのはメフィストの方だった。 せつらが暑さとその他の事情により気を失ったことを気にしてのことらしい。 元はと言えば自分の所為なのに、何たる循環。 そうやって患者を増やしているのかと言いかけたが、ただより安いものはないので、 せつらは代わりに二つ返事で診察室へ入った。 「無くさないために付けているの?それとも約束?目印?」 明け方とは打って変わって、色気も何もない触り方でせつらの身体を診るメフィストの指輪を視線で示す。 「なんとなく、だ」 「なんとなく、ね」 「気になるかね?」 「なるね。冷たいし」 会話の途中にもメフィストは触診を続ける。喉、胸、腹、背中。 同じ指が辿っても、関係が異なれば感じ方も異なる。 「君が熱いから私はちょうど良いが」 「そういう平均の話?大体、僕が冷たいって言っているんだから、そいつの方が勝っているじゃないか」 「勝ち負けではないし、平均でもない」 「……おまえって、あれだよね」 「何かね?」 「最後の一歩が惜しいよね」
蕎麦屋の店内で振り返ったせつらを、椅子に掛けたままのメフィストが見上げる。 「それが正解と納得するかどうかは別の話って、分かっているならそれを示せよ。 比熱じゃない、比較じゃ意味がない」 店内がしんと静まり返る。 「おまえが僕をどう考えているのかの絶対値を示せ」 そう言い放ってせつらは足早に豪雨の中へと消えて行った。 何故か拍手が起こる立ち食い蕎麦屋の中で、メフィストは暫くせつらの後姿を目で追いながら、 この場合、どれが院長としての威厳を保つことが出来る最善の態度なのかを考えていた。 だが、結局は好奇心に満ちた表情でこちらの様子を伺う客と店主から、緩む口元を隠すことで精一杯であった。
2013年08月10日発行 『ソロモンの指輪』収録
2014年08月31日加筆修正 『ソロモンの指輪』というリレー小説に参加させていただきまして、 2013年夏コミにて発行された同名の御本に掲載いただいた小説となります。 誤字脱字や横書きへの変更にともなう改行の追加などを行いました。 『ソロモンの指輪』本編もWebにて公開されております。 →陸さんのサイト 『朔』 いずみ遊 *ブラウザを閉じてお戻りください* |