人魚姫の恋 *いずみ遊*

*お題配布サイトFar side of the moonさんより
『海に沈む10のお題』を使わせていただいています









『その美しい声と引き換えに、おまえに地上を歩くための脚をやろう』





 梅雨を迎える少し前。
真夏のための準備運動だとばかりに、太陽がぎらりとビルの窓ガラスに反射する。
通勤の長い列の中にちらほらと日傘がまじる、そんな時期だ。
とはいえ、ここ<魔界都市>新宿では、かつてのような激しい通勤ラッシュは見られない。
新宿区のみを襲った地震――魔震以降、まともな会社はことごとくオフィスを<区外>へ移したためだ。





 朝8時半。
<旧区役所>跡地に建つメフィスト病院の午前の外来診療開始時間である。
老若男女でごった返した受付ロビーは常のこと。
様々な種類の靴音、呼び出しのアナウンス、鳴き声、叫び声が奇妙なアンサンブルとなって、一日の始まりを告げていた。

 ふいに。
自動ドアが開き、新たな人影が院内へと入ってくる。
その瞬間、一切の音が止んだ。
美しい白い影にロビーの輝きが増したように感じた者もいるだろう。

 先程まで、自分の肩に生えた牙に腕を噛まれて泣き叫んでいた子どもも、
喧噪に負けじと世間話に花を咲かせていた中年の女性たちも、一斉に入口へと目を向ける。
スポイトで水面に水を垂らしたように、ああ、と漏れる声が同心円状に広がり、その合間を数名の看護師が足早に過ぎた。
ドクター・メフィスト。
メフィスト病院の院長の姿を直視し、失神した患者の応急処置をするためだ。





「お帰りなさいませ、院長。その方は?」

 近寄った看護師長が、メフィストが抱きかかえた女性を見る。
タオルにくるまれた女性は、長い髪とほっそりとした腕とふくらはぎから先しか見えないが、服を身に着けていないようだった。
メフィストが患者以外の女性を抱えていることはなく、病人か負傷者だろうと判断して看護師長はストレッチャーの指示をしようと振り返った。

「いらぬ。患者ではない。
院長室まで私がこのまま運ぼう。午前の手術の予定は追って連絡する」

 深いのにどこまでも澄み渡る湖のような声が耳元でした、と思った時には一瞬、意識を失っていた。
看護師長が次に見た時には、メフィストは既に長い廊下を歩み出していた。
長年メフィスト病院で看護師長を勤めているにも関わらず、一向にメフィストの「美」に慣れる気配がない。
そして、女性には興味のないはずの院長が、分かっていて自らの「美」を女性に対して利用している節があると看護師長はそっと溜息をついた。
処置室ではなく院長室へ運ばれていく名も知らぬ女に、ほんの少しだけ嫉妬したかもしれない自分にも吐息。





 西新宿のせんべい屋が訪れた時、部屋の主はちょうど、ベッドに横たえられた全裸の女の下腹部と脚の付け根付近を丹念になぞっているところだった。

「何?趣旨変え?」

 挨拶よりも前に疑問が口を出た。
せんべい屋――秋せつらの言葉に、部屋の主――つまり、ドクター・メフィストは肩越しに視線を寄越した。
メフィスト病院院長室。
元より招かれざる者には開かない扉である。
そこにいる者の姿は見なくとも分かりきっているのだが、メフィストはせつらを見てその瞳をわずかに細めた。

「お邪魔なら帰るけど」

「……いや」

「歯切れが悪いな。疾しいことでもあるの?」

「ないと言えば嘘になる程度には」

 今度はせつらが目を細める番であった。
今朝方焼いたせんべいのうち、選りすぐりの欠けた厚焼きとざらめを手土産に持ってきていた。
これを元手に、今夜は豪勢な夕食とその他オプションに与ろうという魂胆であった。
疾しいのはいずれも同じか、とせつらが思ったかどうか。

「お茶を淹れさせよう」

 メフィストがそう告げた時、女が瞼を震わせ、ゆっくりと瞳を開いた。
暫く天蓋を見つめた後、ようやく自分を見つめる二対の視線に気づき、慌ててタオルを体に巻きつけてベッドの上で起き上がる。
何かを言い掛けて口を開き……――諦めたように閉じた。

『立てるかね?』

 首を傾げる女に、メフィストは歌うような調子で日本語ではない言葉で話しかけた。
頬を赤らめた女がこくりと頷いた。





 端が欠けた茶色の平べったく堅いものを女はしげしげと見つめた。
色素の薄い瞳を見なくとも、顔立ちから日本の血があまり入っていないことは知れた。
看護師が持ってきた病院服を着るのもメフィストが手を貸した。
それは外国にもあるだろう、とせつらがぼんやりと思う頃には、女はせつらの目の前に腰かけていた。

「知り合い?」

 ずず、と湯呑を傾けながら、何でもない風に問う。
答えによっては、その他オプションはその他メインディッシュに格上げしてもいいと考えている。
無論、せつらにとってはということだが。

「この街へ来る前に、一度だけ」

「一度だけ?」

「……」

「……」

「君がどこまで知りたいのかは私には分からぬが、私には一つ分かることがある」

「何?」

「もしここで君を帰しても、君は帰りはしないということ。
故に、私は君がこの場所へ来た時点で諦めている」

「何を?」

「君がこれから起こる一部始終を見ることと、それがもたらす効果について」





 その日。
空には満月が浮かぶ、比較的穏やかな夜だった。
一隻の船が川で難破した。
断崖に囲まれたあたりであったため地上からの救助は望めず、SOSを受け救出に向かう船の火があちらこちらで灯り、
不謹慎にもとても幻想的な夜だった。

 ザンクト・ゴアルスハウゼンの大学病院に籍を置いていた彼は、
救助者を病院へ運ぶよりも医者が現地に向かった方が早いだろうという判断により、複数の同僚医師とともに、船上の人となった。
ライン川の流れに逆らって上流へと梶が切られ、10分も掛からず彼らは現場へ辿り着くはずだった。
しかし。
現場へ着いたのは彼以外の数人の医師のみで、出発時にいた白い医師は満月の見せた夢のように跡形もなく船上からは消えていた。





「無声映画を見ているようだった。頭上には月明かりで波が煌めき、足元はぞっとするほど真っ暗だった」

 船首から川へと落ちた彼は、私のことはよいから救助を、と言い残し水面へと吸い込まれていったと、同僚が別の医師に告げた。
明らかに溺れる人間の様ではない。
全員の脳裏に、美しい旋律が流れていた。
セイレーン。
船はちょうど、ローレライの前で梶を切ったところであった。





『貴方、とても美しい瞳をしている。私の方が吸い込まれそう』

『……』

『驚かないの?』

『ある意味では驚いている。目の前の患者よりも自分の知的好奇心を満たす方を選んでしまったことに』

『不思議な人』

 ゆったりと彼の周りを旋回するのは、臍のあたりから下が鱗で覆われた少女であった。
周りを見渡して、他に同じような人影がないことを確認して、彼はローレライ岩の方を指さした。

『君がもし肺呼吸も可能なのであれば、私はあちらの方が楽なのだが』

『私に何かメリットが?』

『私は医師だ。君が治療を求めるなら、君の思うままにして差し上げよう』

『……』





 せつらは三枚目のざらめに手を伸ばした。
女はせんべいを見ることに飽きたのか、今は横に座るメフィストの横顔を食い入るように見つめている。
日本語で話しているので、メフィストが話す内容が分かるわけではなさそうだが、ただ見たいのだろう。
メフィスト病院の入口を望めるビルの屋上には、今も数人、双眼鏡越しに白い院長の影を探す者がいるとかいないとか。
 自分の瞳にその姿を映し、瞼を閉じれば自分のものにした気分になる。
――そうせつらに言ったのは、当の本人だった気もする。

「私たちは岸に上がりいくつかの会話をした。
そして彼女は治療の礼として、私が望むものをくれた」

「……嫌な想像しかできない」

「君の想像は誤っている。彼女が受けたいと希望したのは喉の治療だ」

「喉?」

「異物を飲み込んでしまい、声帯が少し傷ついていた。
彼女たちの声は人を引き込む不思議な波を持っている。その波が崩れれば歌に魔力はなくなる。致命的だ」

「それで、この人は今の話のどこに?」

 せつらが女を指すと女はせつらを見てにこりと微笑んだ。

「彼女は、治療した女性の年の離れた妹だ」

「……妹?」

 だって脚が……と続きそうなせつらの口元を見て、観念したようにメフィストが溜息をつく。
その拍子にさらりと黒髪が一房ケープを流れ、せつらは思わずそれを掴んで引き寄せたい衝動を堪えた。
それなのに。
女はメフィストの髪に触れ、それを背中に戻してやった。

「何処かの誰かにやらせたのだろう。そういう意味では君の『嫌な想像』は合っている。人が違うだけで。
綺麗に接合出来ているように見えるが、バランスが悪い。
歩くたびに激痛が走るに違いない」

「おい」

「鱗は下腹部からだった。脚だけではない、大腸や小腸、生殖器も全てだ。
声が出ないのは心因性と推測する。
この手術をやったのが同じ医者だとしたら、直ちに医師免許を剥奪せねばならぬ」

「なんで」

 微笑む女の体半分は寄せ集めだ。
生まれた姿を捨て、住んでいた場所から遠く離れた場所に、何故?

「ロマンチックな話は苦手だ」

 そう言って立ち上がったメフィストを追う瞳。
それは……――



"人魚姫は、美しい人間の男に恋をしてしまいました。"



 オペを開始する。
そう告げたメフィストの背中はせつらを拒絶していた。
せつらはそっと院長室の扉を閉じた。





 穏やかな水の流れに揺蕩う長い髪。
月の明かりが岩の上に座った一組の男女をほのかに照らしている。
男の指が妖しく女の喉に吸い込まれていき、それに伴い二人の距離は限りなくゼロに近付く。
幼い少女は水面から頬から上だけを覗かせて、その全てを見ていた。

「きれい……」

 呟きは波にかき消され、二人には届かない。
指を女の喉から引き抜いた男は、指の代わりに今度は自らの唇をその喉へ押し付けた。
右腕は女の背後にまわり、左手は女の乳房をつつむ。

 子どもながらに見てはいけないものだと心臓が高鳴り、慌てて隠れようといつもの癖で尾ひれを強く蹴ってしまった。
ぱしゃり、とはじける水滴と広がる波に、驚いたように男女が少女の方を振り返る。
 一人は少女の姉。そしてもう一人は……。

 視線がぶつかる。
水滴が煌めきながら水面を叩き、それをシャッター音として、少女の脳裏に一コマずつが焼き付いていく。
これ以上見ては駄目だ、と本能が警鐘を鳴らしているのに、身動きができない。

「エルナ!」

 姉の叫びをきっかけにびくりと体が反応し、後はもう夢中で泳いだ。
身体中が燃えるように熱く、遠くで人間が灯す火が川の水までも燃やしているようだった。





 屋上の鉄柵に体を預けせつらは缶を傾けた。
飲んでいるのが缶コーヒーなら様になるのだろうが、あいにく100%オレンジジュースだ。
無論、見たものの9割9分を卒倒させる美貌の持ち主であるので、そんなことは玉に瑕ではなく玉に1ミクロンの埃、程度の大したことのない話だ。
 世界中を焼き尽くす勢いで照っていた太陽も、今ははるかかなた地表に沈みかけている。

「あれ。お疲れ」

 ふと。
横を見れば見慣れた白い医師が立っている。
こちらは手に缶コーヒー。気障だ。

「帰ったの?帰したの?」

「……」

「……帰したんだ」

 ふぅ、と本日二度目の溜息をついたメフィストの背中をせつらが二度、叩いた。

「自分の色男ぶりに心底腹が立つ?」

「……いや」

「腹を立てろ。そしてもう二度と、他人から好かれるんじゃない、藪医者」

 首根っこを掴み、せつらが強引にメフィストに口付ける。
苦手なコーヒーの味に、ちょっとばかり眉を顰めつつ、柔らかい唇を味わっているうちに、せつらはもう一つの『嫌な想像』のことを忘れていた。





『私はどうすればいいの?貴方の知的好奇心を満たすためには』

『君の血が欲しい』

『……そんな伝説、本当に信じている人がいるとは思わなかったわ』

『信じるも信じないも私はその症例を見たことがないので判断しかねる』

『売って大金を得たい?不老不死の触れ込みで。
こんな気色の悪い身体を流れる血を有り難がるなんて、どうかしてるわ』

『売りはしないし、君たちの身体が気色悪いとも思わぬ。
森羅万象、すべてのものがそのままで得難く美しい。元を質せば皆、同じルーツに辿り着く。
君のこの鱗も私の瞳も、すべて』

『……変な人間』

『信用してもらえぬなら、血は今この場で私が飲む。
悪用するつもりはない』

『は?正気?
伝説が本当だったらどうするわけ?
人間は自らの寿命に従うのが一番幸せな生き方よ。
それこそ、森羅万象、そのままが一番美しいのよ』

『大いに賛同する。
ただ、私自身、幸福を得ようとも美しくありたいとも思っていない』

『なら!』

『濃い血が長すぎる命を与えるものだとしたら、それを薄めたらどうなる?
未知の効果がある薬を作れるとしたら?
救えぬ命を救う可能性が広がるとしたら?』

『……神にでもなるつもり?』

『……いや』

 むしろ、それは。
彼は視線を落として水面に映る自分を見つめる。
ゆらりと揺れて、一定に留まることはない。
東洋の島国では"ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず"という言葉を残した歌人がいたという。



 "よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしない……"



 富も名声も権力も、欲しくはない。
神になるのではない。
ただ、悪魔に心臓を売り渡す、というだけだ。

 セイレーンたちの鎮魂歌が静かに、ごく静かに流れていた。









 彼が、"ドクター・メフィスト"と呼ばれるようになるのは、これからしばらく後の話である。










2014年06月15日いずみ遊
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