ペットボトルの最後の中身を飲み干そうとして、男は思わず手を滑らせた。
廃墟となったJR新宿駅東口の線路沿いを、ペットボトルが転がっていく。
大ガードへと続く坂道に勢いを得て、留まるところを知らぬように。
男がそれを慌てて拾いにいく素振りを見せなかったのは、
道の反対を歩いていく、白いケープ姿から目が離せなかったから。
「あいてっ」
やっと止まったペットボトルを踏んで、誰かが派手に転んだのは、
2月4日、立春の穏やかな午後だった。
空飛ぶうさぎ *いずみ遊*
「はぁ」
間の抜けた声がかくも美しいかと、感嘆を越えて
呆れに入ってしまいそうな声で、秋せつらが呟いた時、
秋せんべい店の住居部分は秋DMSセンターの応接室となっていた。
店長に一目合わせてくれたら、店のせんべいをあるだけ買って行くという
観光客のおばちゃん集団が来た、とのアルバイトの知らせで、
店先に出ようと重い腰を上げたとき、チャイムがなったのだった。
せつらが、心の内で舌打ちをしたかどうかは、凡人には分からぬこと。
「分かっているんです、あ、秋さんが、どんな凄腕の人捜し屋か、なんて」
秋せつら。
新宿一の人捜し屋である彼の元には、何人もの依頼人が訪れ、
時には笑顔を、時には涙を顔に浮かべ、去っていく。
そんな彼の前に慣れない正座をして座っているのは、
人のよさそうな20を少し過ぎたあたりであろう青年である。
「うちは、人捜し専門ですからね」
春一番も彼の髪に触れてしまうのが恥ずかしいと避けてしまうような
のほほんとした表情でせつらは本日三回目の言葉を繰り返した。
「わ、分かってます、でも……」
美しい黒衣の青年と、柔和な顔立ちの青年の見つめる先には、
一羽のうさぎの写真。
「分かりました。捜してみます」
こうして、秋せつらの人生初のうさぎ捜しが始まったのである。
紫のサテンのドレスを軽やかに揺らしながら、
一人の少女が東京医大病院跡の近くを歩いていた。
手にしたカゴいっぱいに黒い花が入っているところから、
頼まれごとの帰りだということが知れる。
「あら、うさぎさん」
少女がしゃがみ込んだ先には、確かに一羽のうさぎが
うずくまっていた。
白い毛が、ふわふわと揺れている。
しばらくじっと見ていても、動く気配がないものの、
その体が小さく上下しているのを見て、
少女はやや物悲しげな表情を浮かべたようだった。
「これ、あげるわ」
そう言いながら、黒い花を数本カゴから取り出して、うさぎの首輪にさしてやった。
黒い花を背負った白いうさぎはそれでも起きる気配はなかった。
そして少女は再び、青梅街道を歩き始めた。
あんなに小さな生き物にもきちんと動く心臓があって、
どうして私には……と、唇をかみ締めながら。
ネオンの輝く歌舞伎町の大通りを、子供が一人、走っていた。
追いかける大人の姿もなく、コマ劇場まで走りきった子供は、
広場でようやく足を止めた。
滾々と湧き続ける水を写真に収めようとする観光客集団の足元や、
いかがわしい煙を吐き出す中年男性の背中などを覗き込んでいる。
「何を捜しているんだ?」
ビラ配りの男が、子供に声を掛けた。
あまりに暇だったからか、それとも子供が必死に何かを捜しているのに
遠い日々を思い出したのか。
子供は男を見上げて、にっこりと笑った。
「パパがさがしてる、いちおくえんのうさぎ」
ビラ配りは一瞬、虚をつかれたような顔をして、
それから笑い出した。
「そりゃいい。
見つけたら教えてくれよ」
がんばれ、アリス。
その話が、強ち嘘ではないことを、
ビラ配りは一生知ることはなかった。
声まで太った情報屋が、パリジェンヌで特大のパフェを食べていた。
パフェは特大なのだが、どうも比較対象が規格外のためか、
普通サイズのパフェに見える。
「なんなのさ」
考えていたことが読まれていたのか、じろりとにらまれ、
秋せつらは、ははとから笑いをした。
「うさぎ、ねぇ」
新宿一の情報屋、外谷に見つめられること数秒、
写真の中のうさぎは、やや逃げ腰になったように見えた。
外谷の頭の中では、今まさに、うさぎが両手両足を棒にくくられ、
火に掛けられるところだった。
「人ならまだしも、うさぎ。
あんたも落ちたわさ」
「たまにはいいじゃないか」
拗ねたように口を尖らしたせつらは、視線を窓の外へとそらした。
夜になれば、その奥へと続くホテル街へ向かう男女が行き交う道も、
昼間は人通りが少なかった。
紙袋に大量のビラをいれて、仕事へ向かう男が、
せつらを見てぎょっとしたように立ち止まった。
「うさぎなら、いっぱいいるわさ。
ペットショップにも、飼われてるのも、一億円のも、
そこで二千円で焼かれ始めているのも」
「……」
「でも、私にはどれも同じに見えるわさ」
「今何て言った?」
「つまり、どれも美味しそう……」
「いや、一億円?」
「いちおくえん? 何が一億円だわさ!!」
せつらは、わざとらしく溜息をついて、伝票を手に取った。
外谷は2つめのパフェに手を出していた。
「でぶの第六感」
はい?と店員が聞き返した時には、
せつらはすでに店外に消えていた。
二度目にせつらが会った依頼人は、前回に会った時にしていた
包帯を外していた。
聞けば、近くの病院にかかっていたらしい。
ヤブ医者でなくて、何よりだ。
「はぁ、一億円ですか」
「はい、一億円のうさぎです。
最近、その筋でちょっとした噂がありまして」
ここのところうなぎ上りに勢力を増している、牙進会の幹部が、
うさぎを捜している。
そのうさぎを見つけたやつには一億円出してもいい、という噂だ。
「その、あなたの飼っていたうさぎは血統がいいとか……」
「いえいえ、滅相もないです!
ただのうさぎです。ペットショップで十万円です」
少なくとも、焼かれているうさぎよりは高いが、
それでも、一億円出してまでほしいというものでもないらしい。
「そうですか」
「芸はできますが、一億円はしません」
お役に立てなくてすみません、と依頼人は小さくなった。
高田馬場の一角で、野太い声が響いた。
「ケツの穴の小さい男だねぇ!
不幸な事故だって、言ってるんだ。
あと一年したら確実にできるんだから、
そこまで我慢したらどうなんだい」
トンブ・ヌーレンブルグだ。
その巨体の前で、凄んでいるのは、
噂の牙進会の幹部であった。
「何言ってんだ、俺は大枚はたいて、
あんたに薬を頼んだんだ。
それを……」
「あたしは一回も今すぐに作るなんて言ってない」
無理やりな話である。
幹部もそう思ったのであろう、トンブとの間を縮めた。
しかし、相手はトンブ・ヌーレンブルグである。
一介の暴力団幹部など、赤子としか思っていない。
「別に、金だけ取ろうなんて思っちゃいないよ、あんた。
来年になったら、できるって言ってんだ。
何なら金を返してもいいよ。
他で作ってもらえるならね」
話だけ聞いていると、どちらが暴力団幹部か分からなくなってきそうな
そんな勢いである。
しかし、幹部はぐぐ、と詰まった。
新宿、<魔界都市>広しと言えど、
あの薬を作れるのは、トンブか、今は亡きガーレン・ヌーレンブルグくらいな
ものなのだ。
「くっ、来年だな? 必ず来年までには作れるんだな?」
「そう何度も言ってるじゃないか」
幹部は、未練たらたらの背中で、帰って行った。
「申し訳ありません」
今まで隅にいた、少女が顔を出した。
トンブは、ふんっと玄関に塩を撒きながら、
「別に、あんたをかばうわけじゃないわさ」と
嘯いた。
花屋の店先で水を撒いていた男の手が止まった。
「やぁ」
茫洋とした挨拶をしたのは、従兄弟の秋せつらだった。
「黒い花?」
「そう、それを捜している人が捜しているものを捜している」
秋ふゆはるは、従兄弟の顔をまじまじと見てから、
自分の店を振り返った。
「見ての通り、うちには黒い花は置いていない」
確かに、店内に溢れるのはカラフルな花ばかりで、
黒い花はなかった。
「知りたいのは、花じゃない、人だ、人」
「あらぁ、せつらさん」
花の香りが急にきつくなった、と思ったら、
向こうから柊子が歩いてきていた。
10センチはあろうかというヒールに、毛皮のコート。
中には豊満な肢体があることが、その厚い上着の上からでも知れた。
しかし、その体になんら興味を示さない男二人。
「店長、配達にいってまいりました」
ふゆはるは、空を見上げ、肩をすくめた。
「3時間掛かったら、区外にでも行けるな」
「まぁ、店長。お得意様にはそれ相応のサービスが必要ですのよ」
どのようなサービスかは推して知るべし、か。
せつらは柊子にもふゆはるにしたのと同様の質問をした。
すると、柊子はせつらのつま先から頭までを一通りなめるように見て
(いい男を見ると、脳の細胞が活性化して忘れていた記憶を
呼び起こせるらしい)、そういえば、と切り出した。
「牙進会の方が2名、黒い花を捜しにいらっしゃいましたわ。
何度かいらっしゃったけど、最近はいらしてないですわね。
新進の牙進会の方ですから、どんなものかと思ってましたが、
あちらの方は……」
そこで、初めて冷え冷えとした二つの視線に気がついたのか、
柊子は、ふふと曖昧な笑みを浮かべた。
「しんでるの?」
「ああ、死んでいる」
「しぬ、ってどういうこと?」
「死ぬとは……」
美しい瞳が一瞬、翳った。
子供はその瞳を一生懸命、見つめて答えを待った。
「死ぬとは、全てのものから解放されるということだ」
「かいほう?」
「誰からも見てもらえず、誰とも話せない、そういうことだ」
旧JR新宿駅東南口の裏手は、ひっそりと静まり返っていた。
いるのは、子供と白く美しい影だけ。
「せんせい、なおせないの?
お父さんとお母さんが、せんせいは新宿でいちばんのせんせいだって
そう言ってたよ?
だから、ぼく、せんせいのところにてんいしたんだって」
「動かなくなったおもちゃとは違うのだよ」
子供は手にしたラジコンカーを見た。
動かなくなって、泣いていたところを、白い医者が通りがかって直してやったのだ。
そして、再び動き出したラジコンカーを追っていたところ、
茂みの陰に横たわる白いうさぎを見つけた。
「死んだものをなおしても、それが幸せかどうかは……」
ビラ配りは、最後の一枚のビラを配り終わろうとしていた。
これでこのバイトも終わりだ。
金も稼いだし、この街の象徴とも言うべき二人も見掛けたし、
思い残すことはなかった。
近くに気配を感じ、目線を移すと、
そこには子供が一人いた。
「おう、一億円のうさぎは見つかったか?アリス」
子供はこくんと頷いた。
ビラ配りはちょっと意外な顔をして、そうか、よかったなと言った。
「そうかな」
急に大人びた表情になって呟いた子供に、
ビラ配りは手に持っていた最後のビラを手渡した。
「まぁ、人生、いつも何か捜してるようなもんだもんな」
これでも行って、元気だせや、と。
子供はそのビラを見て、急に泣き出した。
ビラ配りは慌てて、どうしたんだよ、とその小さな体を抱きしめた。
子供の手から滑り落ちたビラには、
”来る3月15日、サーカス団がやってくる!!
演目1:……、2:……、3:空飛ぶ白うさぎ、4:……”
「そうですか、死にましたか」
お墓の前で、依頼人は手を合わせた。
小さなお墓の中には、小さな白いうさぎが眠っている。
ドクター・メフィストが最近患者になった子供と一緒に作ったらしい。
それだけで、新しい観光地となりそうだ。
「商売道具、でしたか」
せつらは、強い風に目を細めながらたずねた。
「いや、パートナーですよ」
新宿に、遅い初雪が降った。
白い粉雪は風に舞い、地面に落ちる前に消えた。
「メフィスト、雪だ」
せつらはメフィスト病院院長室から外を眺めていた。
「空を飛べないうさぎの方が幸せだったかな」
平凡な、ただのうさぎ。
普通に飼われている方が、長生きできたかもしれない。
「そんなことは、人間が決めることではあるまい」
患者の幸せを、医者が決められないように。
その日せつらは、うさぎが大冒険をする夢を見た。
サーカス団から空を飛んで抜け出したうさぎが、
子供の病気を治すために奮闘する親のもとへ黒い花を届けに行くという物語だ。
また来年には花が咲く。
2007年3月17日 いずみ遊
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