ある風の日 *いずみ遊*
嵐のような凄まじい風の日だった。
木々の葉はことごとく散り、風に巻き上げられ、再び地に落ちて絨毯を成した。
商売にならないとシャッターを降ろした店もあるというのだから、
それはそれは酷く風が強かったのだ。
そんな風の中、その男は歩いていた。
身なりと言えば、若者風。
赤紫のコーデュロイのジャケット、裾が波をつくるダメージジーンズ、
首には派手な柄のスカーフを巻いていた。
表情は太いフレームの眼鏡と目深に被ったウエスタンハットのため窺えないが、
うっすらと笑みを浮かべているのだけ見て取れた。
男は靖国通りを右手に曲がり、細い道へと入った。
いわずと知れた旧新宿区役所、現メフィスト病院へと続く道である。
いつもは多くの患者や観光客が通る道も、今日は天候のためか
心なしか人通りが少ない。
男がメフィスト病院の入り口に立つと、自動ドアが開いた。
病人、見舞い人、観光客等でごった返す受付ロビーが
不意に静かになり、再び元の喧騒を取り戻した。
一秒おきに違う動物に変化する患者が受付を待つ子供を泣かせ、
慌しく動く看護師が患者たちの間を絶妙のタイミングですり抜け、
やって来る患者と退院する患者が交換される。
男はその様子を見ながら、受付を通り過ぎようとする。
新たな患者かと勘違いした受付は、彼に声を掛けようとさっと身を乗り出した。
片手を挙げて男はそれを制し……。
「いや、患者じゃない。
メフィストに用があるだけさ」
メフィスト、と。
メフィスト病院の院長であり、様々な理由から患者以外の相手に恐怖を与える
ドクター・メフィストをこの病院内で呼び捨てにするとは。
男はその一言だけで受付だけではなく患者まで凍らせて、
悠々と廊下を歩き続けた。
「久しいな、<葬儀屋>」
世にも美しい唇から零れた「そうぎや」という言葉は、
塵一つないこの部屋に似つかわしいようにもそうでないようにも思えた。
白いケープをゆったりと揺らし、ドクター・メフィストは大机の前に立つ。
自然、目の前の男をメフィストが見下ろす形となった。
葬儀屋、とそう呼ばれた男はウエスタンハットを恭しく胸の前に持って行き、
頭を下げた。
さらりと茶色の髪の毛が流れる。
「<魔界医師>に憶えていただいたとは至極光栄。
またとなき幸福」
再び帽子を被りなおした<葬儀屋>は代わりにサングラスを外した。
どのパーツをとってもドクター・メフィストには当分及ばないが、
それでも街中で見れば数人が振り返るかもしれない顔立ちではあった。
その証拠に、メフィストはすっと目を細めて、その顔を検分した。
「やめてくれ。その気はない」
メフィストの視線を払うように顔の前で右手を振った<葬儀屋>は
さも当然と言うように本皮のソファーに体を沈めた。
メフィストはそれを気にする風でもなく、現れた看護師にコーヒーを二つ頼んだ。
「君の顔に惹かれるのは、君がその顔に何も手入れをしていないからだろうな」
<葬儀屋>に向かい合う形でソファーに腰を掛けたメフィストは、
呟くようにもらした。
途端に<葬儀屋>は不機嫌な顔をした。
「当たり前だ。<魔界都市>なんてふざけた名前の街で、
唯一俺だけがまともだ」
メフィストはそのつっけんどんな口調に微笑を返した。
<葬儀屋>とドクター・メフィストが出会ったのは、5年前の冬だった。
患者を救う新鮮な臓器のために「死体」を欲しがったメフィストに対し、
<葬儀屋>は「遺体」には一切、損傷を与えさせるわけにはいかないと言って
折れなかった。
その時以来の仲である。
<葬儀屋>は齢25歳。
中学を卒業する頃に父を亡くし、高校へ行くことを諦めて家業である「葬儀屋」を継いだ。
本人を見る限り、親の財産を食いつぶす二代目と言った風を受けるが、
身元不明の遺体も手厚く葬るなど、<区内>らしからぬ葬儀の丁寧さが評判である。
やり手と言えば、やり手だが、本人曰く、
「俺はこの街で一番まともな人間なだけだ」
遺体を丁寧に扱うのは、文明国に生きる人間として当たり前のことだと言うのは
まだ分かる。
しかし、仮令、夜であったとしても武器を一切持たずに外を出歩くとまでなると
それは最早、「最もまともではない」に等しい言葉だった。
実際、<葬儀屋>は何度も危ない目に遭い、何度かは重軽傷を負い、
病院へと運ばれた。
行きつけの医者は、「頼むからナイフの一本でも持ってくれ」と頼み込んだが、
<葬儀屋>は、「この国の象徴がナイフを持って歩いたら考えるよ」と言って
聞かないのだった。
メフィストはそんな事情を知って、死にかけたらここに電話を掛けたまえと
院長室直通電話の番号を渡したのだが、電話が鳴ることはおろか、
<葬儀屋>がメフィスト病院へと運ばれてきたことすら今までに一度もなかった。
「そのまともな<葬儀屋>がわざわざ我が病院へと足を向けたのは何故かね」
コーヒーカップに口を付けた<葬儀屋>は、それが古いマイセンのものだと知り、
眉を顰めた。
一月分の稼ぎ、とも呟いたかもしれない。
「見てほしいものがある。
もちろん、タダでとは言わない。きちんと診察料は払う」
そう言って<葬儀屋>が取り出したのは、一枚の脳の断面図を取った写真と
血液検査の結果の写しだった。
メフィスト病院では指診が主流なので、MRI機器は倉庫に仕舞われている。
これが別の、しかもかなりレトロな病院で撮られたものだということが知れた。
「うちで葬儀を挙げると契約してくれた客のものだ」
メフィストは写真を受け取ると青い光にかざした。
「ほう……」
きらりと細長の美しい瞳が光り、長い睫が二三度それに覆いかぶさった。
「あと、どれくらいだか分かるか?」
メフィストは血液検査の結果をざっと眺め、そして<葬儀屋>へと
視線を戻した。
「治療を受けないで、という意味ならば、半年。
受けるならば、私が治してさしあげよう。
一ヶ月も入院すれば、日常生活にはなんら支障はない」
「半年、か」
<葬儀屋>はコーヒーを一気に飲み干した。
部屋を埋める青い光が一段と濃さを増したように思えた。
「最初は味覚、次は感覚。
同時進行的に耳、鼻、目が悪くなっていく。
気がついた時には五感が非常に弱くなっているケースが多い。
ところで」
いつの間にかに<葬儀屋>の隣に腰を掛けていたメフィストが、
その美しい顔を<葬儀屋>へと近づけた。
「ただの水をマイセンで飲んだ気分はいかがかね」
<葬儀屋>は空になったマイセンのコーヒーカップを見て、
それから瞬時に逃げ出す様に立ち上がった。
しかし、本人が「まとも」と言うように、常人のレベルの身体機能しか
持ち合わせていない<葬儀屋>をメフィストの繊手が掴むのは
簡単なことだった。
「まともな医者は他人の診察などしない。
そのくらいはまともな<葬儀屋>は理解の上ではなかったのかね」
「離せ」
「離さぬよ。まともな医者は患者を治す義務がある」
「俺は患者じゃない」
「目の前に死にかけた人間がいれば助けるのが医者の務め」
抵抗する<葬儀屋>の力が抜けた。
分かっていたのだ。
この常人離れした美しい医者が、自分の嘘をすぐに見破ることなど。
見破ってほしくない。
けれど……。
<葬儀屋>がソファーに滑り落ちるように座り込んだのを見て、
メフィストは手を離した。
この街が異常だと気がついたのは、父親が死んだ時だった。
それまでは、遺体をそれこそ家族よりも大事そうに扱う父親を煙たがっていた。
人は死ねばただの抜け殻で、そんなものはどう扱われようと
構わないではないかとそう思っていた。
多くの人の葬儀を執り行い、時には最期を看取り、
死者と残された生者にどこまでも献身的だった父。
しかし、彼は実にあっけない最期を迎えた。
家族はついにその骨すら手に入れることは出来なかった。
跡形もなく三頭犬に食われたのだという。
遠巻きに見物していた人々は、自分が安全圏にいることを自覚し、
その死を最期まで見届けていた。
「この街は、色々な感情をコントロールする。
街で危険なものが出れば、人は諦める。
それは、ここが<魔界都市>だからだ。
あんたがやっていることは、人間技とは思えない。
だけど、ここではそれが許される。
<魔界都市>だから」
メフィストはベッドに横になった<葬儀屋>の額に指を沈めながら、
なるほどと呟いた。
「多くの犯罪、耳を覆いたくなる事件に、麻痺する。
怪我をする。病院に行く。跡形もなく直る。
ならば、多少の怪我をしても、怪我をさせても平気だ」
<葬儀屋>は閉じていた目を開けた。
満月のような遠く高貴な顔が間近にある。
「それが人間か?
人が大量に殺された。この街だから仕方がない。
人に怪我をさせてしまった。まぁ、すぐ治るからいいだろう。
俺には分からない。
この街だから許されることなんてあるはずがない」
それは、街の所為にすることにより、
様々な面倒から逃れようとする人間の人間的堕落だ。
地獄だろうと天国だろうと、そこにいる人間がいかなる行動をするかで
道は違ってくるはずだ。
「私が嫌いかね」
「……」
メフィストの指が引き抜かれると、<葬儀屋>は低く呻いた。
感覚が戻ってきた証拠だ。
強風の中、飛んできた看板に右肩をぶつけていた。
その痛みの感覚だ。
「遺体から臓器を抜くと言った時、本気で殴り倒してやろうかと思った。
あの時は俺も若かった。
でも、あんたはインプットやハウツーはまともじゃないけど、
アウトプットだけは、分かり易くて、まともだ」
目の前の患者に対し治療を施す。
ただ、それだけ。
「だから、分からない」
一級の彫刻家が一生掛かって掘り出したのかと思える手で、
方や患者を生かし、方や邪魔者を殺す。
それは、もはや神か悪魔の裁量ではないか。
「ここにいるあんたは誰だ?」
「私はただの医者だ」
嘘だ。
<葬儀屋>の本能がそう叫んでいた。
こいつは火葬にしても灰にはならない。
土葬のために土をかけても穢れない。
水に入れても、山の頂に置いても、きっとそのままの美しい姿を留める。
そも、この医者は「死」とは最も近く最も遠い存在だ。
「時よ」
<葬儀屋>の唇が動く。
メフィストは<葬儀屋>の体を難なく起こす手を止めた。
「そなたは美しい」
永遠に生き続けるのは永遠に死に続けるのと同じだ。
時を留めれば、時空が汚れる。
時の死の中で、ただドクター・メフィストという名を持つ男だけが美しい。
「懐かしい言葉を聞いた」
「時を解放しろ、メフィスト」
「いずれは」
一ヶ月の入院を断る<葬儀屋>を、メフィストは止めなかった。
じきに味覚も戻るだろうが、自分で調理したものはしばらく食べないこと、
というのが条件だった。
<葬儀屋>が外へと出ると、すでに強風は消え去っていた。
木々はすっかりと葉を落とし、街は一気に冬への衣替えを終えていた。
「時よ、そなたは美しい」という言葉について色々考えていたら出来上がった作品です。
ファウスト読んだことないので全部自分の空想ですが、何となくメフィストが留めていた時を、
流れさせる呪文なのではと思ったりして。
2005年11月17日 いずみ遊
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