覇王 *いずみ遊*
頭を撫ぜられた。
見上げると、月が世の中の憂いなど知らぬ気に気高く微笑んでいた。
――何を
美しい唇が紡ぐ。
何を、と。
それを僕に問うのか。
この街は全てのものに平等だ。
それは、優しさではない。
全てのものに等しく牙をむくということだ。
危ういバランスで十数年も持っているのは、そこらの建物ばかりではない。
この街へとやってくるものがいる。
反対に、この街から去っていくものもいる。
この街に生まれ、生きる宿命を負ったものと彼らは根本的に違うのだ。
だから、僕と隣にゆったりと腰を下ろした医者との間には
まさしく深い亀裂が横たわっている。
呻き声が聞こえる。
あの日あの時間、聞こえるはずのない無数の呻き。
生者も、死者もみな、呪いの言葉を吐いている。
僕は目を閉じ、その言葉の中に埋没する。
新宿の象徴?
……そんなものがあるとしたら、それは僕ではなく彼らの呻き声だ。
どれ位そうしていたのか、気が付くとやはり隣には医者がいて、
そして、この医者にしてはめずらしく姿勢を崩してソファーに沈み込んでいた。
黒皮のソファーよりも艶やかで黒い髪が、僕のコートの上を流れている。
「何してるの?」
腕時計を確認しながら訊ねる。
もう、少なくとも二時間は経っている。
「さて」
医者はこちらを見もせず答えた。
目の前にコーヒーカップが置かれているということは
ずっと起きて隣に座っていたということだろう。
天下のメフィスト病院の院長が、二時間も
こんなところで無為に何をしていたのか。
「暇なの?それとも……」
「暇ではないだろうな。
優秀なスタッフが何とかしているとは思うが」
事も無げに言う。
そういえば、往診に行くと言っていた気がした。
それはどうしたというのだ。
「いや……職務怠慢じゃ……」
「医者が自分の患者を心配することは
別に怠慢ではあるまい」
「僕は患者じゃない」
「けれど、私は君の主治医だ」
先ほどから一度もまともに顔をこちらへ向けない。
薄暗い明かりが、医者の顔の陰影を濃くする。
この医者を輝かせるのは光ではない、漆黒の闇なのだと、
僕以外に知る者など恐らくいまい。
「分かったよ。心配してくれたんだな、おまえは。
ありがとう。もう平気だよ」
それでも、医者は動かなかった。
代わりに僕が立ち上がる。
二時間ぶりに動かした体は開放感に悦びの声を上げた。
「じゃ、帰るよ」
簡単な言葉で。
振り向いた僕を、怜悧な問いかけが追う。
「君は、何を恐れて生きているのかね?」
二歩目を踏み出そうとした足が、床の上で固まった。
「『僕』とは誰のことかね。『私』とは誰だ?
そうして何を守っているのか、何を守らなければならないのか」
医者の二時間は僕の人生に匹敵する。
「答えなければ帰してはもらえないの?」
茫洋と、何時も通り。
装うことは、赤子の首をひねるように簡単で。
……けれど、
赤子の首にかけた手は、あまりに冷たくて
誰かの熱に、屈してしまう。
「めふぃっ……」
「帰す?何処へ?
君に帰るところなどありはしないのに」
「何を馬鹿なことを……離せ、くるし……」
「ゲートの向こう側からやってきた医者では力不足かね?
けれど、君には私が何処からやって来たかなど知りようがない。
何故試さない?
君は君を作り、それに自信を持っている」
そう。
それだから、どうだというのだ。
後ろから抱き締める腕を解くことを諦めると、いとも簡単に解放された。
「何を恐れて生きているのかね?」
「何も恐れてなどいない」
やっと顔を真正面から見据えることができた。
医者は常のごとく美しく、神の代弁者のようだった。
「ならば、何故私に賭けないのか、君は君自身に訊く必要がある」
「意味が分からない」
「そのような言葉は何の効果も及ぼさない」
二の句を告げられなかった。
呻き声が、怨嗟が、ぐるぐると渦を巻き始める。
胎の底から、この街の闇が――
……
唇に、冷たい感覚。
「そんなものは、幻想だ」
再び重なりそうになる唇を除けて、僕は走った。
こんなにもこの医者から逃げたいと思ったことはなかった。
ひどく、無様だと思った。
――何故、試さない?
試すことで、自分が解かれていくのが嫌だからだ。
それを分かっていて、あの医者は問うのだ。
全て分かっているのに。
僕が、どうしようもないくらい彼に惹かれていることも、全て。
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いずみ遊 2004年2月10日
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