目覚めたら、そこに天井はなかった、というのは良くある話だ。
と、思う。
いや、思いたい。
思わせてくれ。
頼む。
ほら、よくあるじゃないか、そういうとんちクイズ。
雨が降っていないのに、多くの人が傘をさすのは良くあることである。
雪の日がありますねー!
みたいなー。
な?
だから、つまり、目が覚めた時、目が天井の方に向いてなかった、とか
ああ、天井からぶら下がって寝ていた、とかもありか。
ありかー!
あははー。
……。
暫く現実逃避を続けた後、オレは漸く自分の置かれている状況を
丸ごと受け止めようと努力し始めた。
携帯電話にセットした目覚ましで起きたオレがまず見たのは、空だ。
眠気眼に、ああ、今日は晴れだ、などと思ったのも一瞬、
すぐに天井が無いことに気がついた。
そう、家の天井が奇麗に、ずばっと切り取られているのだ。
イエーイ、めっちゃほりでー。
……しまった、また現実から逃げ出そうとしていた。
とりあえず起き上がる。
そして奇麗な切り口を見せて途中からなくなっている壁に近付いた。
鮮やか過ぎる。
どうやら切り取られているのは、この部屋だけらしいが、それでも六畳の広さがある。
六畳の広さの屋根を、さしたる音も立てず、すぱっと、まるで粘土を糸で切るみたいに……。
「……まさかね」
脳裏に浮かんだ顔にやや恍惚としながら、オレは扉を開けた。
何やら足の裏がぬるぬるとする。
屋根が無かった所為で、鳥のフンでも踏んだのだろうか。
い、家の中で、鳥のフン……。
一体親になんと言い訳をしようと考えながら、階段を降りる。
……いや、何故言い訳をするのかは、よく分からないが。
HELP! *いずみ遊*
「と、言うわけなんですよ。つまり、昨夜から今朝方に掛けて、
人家ばっかり狙った屋根泥棒が多発した、と言いますか……」
メフィスト病院の院長室で、すまなそうに安物の煙草を吸いながら
朽葉は自分がひどく場違いな会話をしているのに気がついた。
今、腰掛けているソファー一つとっても、自分の給料の何ヶ月、
いやことによると数年分の値段がするだろう豪奢なこの部屋で、
それら全ての造形的、金銭的な価値を一瞬で無に変えてしまう美と
対峙しながら、「屋根泥棒」などと……。
難破船の上で助けを求めるような、途方にくれた表情で彼が見た先には、
その表情の機微の伺えぬ顔が、ひっそりと彼を見つめ返していた。
「君は、風変わりな事件があると、必ず私の所へ話を持ってくる。
新手の嫌がらせかね?」
微笑と口調から、軽く冗談めかして語っているとは分かるが、
朽葉は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
嫌がらせ?
新宿区民として産まれついた者の誰が、
この圧倒的な支配者にその様な真似ができるというのか。
そこに存在するというだけで、あらゆるものを魅了し、畏怖させる、
それ故にこの美の化身はこう呼ばれているのではないか。
ドクター・メフィスト――<魔界医師>と。
「い、嫌がらせなんて滅法もないですよ、先生」
朽葉はぶんぶんと両手を勢い良く胸の前で振った。
「そこまで否定されると疑いたくもなる」
美しい医師は、笑みを深めた。
朽葉はニ三度頭を振って、脳内を占領しようとした妖しい靄を霧散させ、
大きく息を吸った。
そうでもしないと、理性など何処かへ吹き飛んでしまいそうだ。
意識を集中するため、いきなり核心に切り込むことにする。
「いや、疑っているのは……その、西新宿のお方のほうで」
「西新宿のお方」。
その言葉で、目の前の美が崩れるはずもなかった。
しかし朽葉には僅かに、メフィストの目元が動くのが見えた気がした。
―― 一枚噛んでいない筈が無い。
刑事の勘がそう囁いた。
「ほう、秋くんが?」
「ええ。先生にお話したとおり、被害にあった家は非常に鋭利なもので
屋根を切り取られているんですよ。こう、ずばっと、一瞬にして勢い良く
やった感じなんですな」
「彼が、糸を使って?動機は何かね?」
メフィストの声音には、どこか面白がっている風がある。
朽葉は「いやぁ、冗談ですよ」と言いたくなるのを堪えて口を開いた。
「いえ、それを本人に聞きたくて、<新宿>中を探し回っているんですが、
いやはや、人捜し屋を探すのは、大変で。
メフィスト先生なら、何か知っていらっしゃるのではないかと思いまして
こちらにお邪魔したという次第なんです」
大して暑くも無いのに朽葉の首筋にはじわりと汗が滲み出てきていた。
何度顔を合わせても、慣れることはない。
犯罪者として検挙したくない人物ランキングというものを、警察署内で
アンケート調査したとしたら、一番にはこの医師の名前が載るだろう。
――いや、そんな俗悪なランキングに彼の名が載ることは、
同じくらいの確率でないのだが。
「残念ながら、ここ数日、秋くんとは顔を合わせてはいない」
「……そうですか。残念です」
本当に?という疑問を発する気力は、もはや残ってはいなかった。
朽葉は、礼を言って院長室を後にした。
「屋根泥棒」
――まったく、ここじゃ、不可解な事件には事欠かねぇな……。
昼ごはんと、財布の中身を戦わせながら、朽葉は炎天下の中へと歩を進めた。
「まさか、本当に来るとは思わなかった」
ひょっこりと院長室の奥から顔を出したのは、数秒前まで話題に
上っていた「西新宿のお方」だった。
秋せつら。
せんべい屋の三代目店長にして、<新宿>一の人捜し屋。
「ここが一番の隠れ場所だと思ったのに、あの刑事さん、やるなぁ」
「かくれんぼが済んだなら、早々に出て行ってくれたまえ」
メフィストは冷ややかにせつらを見て言った。
表情の無い看護師が出てきて、二つのコーヒーカップを音も立てず片付けて行く。
その間、双方はぴくりとも動かず、視線を交わしていた。
「……いや、だって、メフィスト?あれは、誰が見たって……」
「その話は金輪際聞きたくない。早くこの部屋から出て行きたまえ」
「そりゃ、僕も出来れば口にしたくなんてないよ。
でも、どういう訳か、あれが、屋根に……」
「……せつら」
「……ごめん」
二人の間に再び沈黙が流れる。
「でも、ここまで4軒の屋根を切ってきたけど、事後処理は完璧だ。
きちんと糸で朝までそこの住人を守ったし、おまえの患者の誰かに
迷惑を掛けた訳でもない」
「だが、……」
メフィストは珍しく言い淀んだ。
そも、この魔人たちは一体何の話をしているのか。
朽葉の言っていた「屋根泥棒」がせつらならば、何故、彼がその様な
泥棒行為をしなければならなかったのか。
「そのままにしておいても、被害はないって?
そりゃ、そうだけど……。おまえも見ただろう?
あれは、もう、なんか、この世にあっちゃいけないって気がするんだよね」
「否定はせぬが」
「んー……。でもまぁ、これ以上『犯行』を重ねて捕まるのも嫌だし、
今度からは見過ごそうかな……」
「そうしたまえ」
そんな会話が院長室で交わされた三日後。
「屋根泥棒」最新被害者であった、大学生のAくんの家で、
半径一Km以内に響き渡るのではないか、という程大きな悲鳴が発せられた。
発生源は、もちろんAくん。
Aくんの部屋に駆けつけた家族は、扉の前で絶句して、
それから一歩も動けなくなった。
彼の部屋の床には、一面……。
「あー、あの時、潰し損ねてたのかー」
まったりと畳の上でお茶を飲みながらニュースを見ていたせつらは、
嫌なものを見た、と眉を顰めた。
「そりゃ、発狂もするよね……」
テレビの画面に映し出されたのは、床一面、
所狭しとぎっしりと埋め尽くされた鮮やかなオレンジ色。
それは件のAくんの部屋の床であった。
オレンジ色にどんどんズームしていくカメラ。
それが、ただのオレンジ色でないことがわかる。
何やら、透明のボールに、オレンジ色が……。
そう、その正体は無数のイクラなのだ。
どのような経緯で、増殖するのかは知らないが、
せつらが始めにそれを発見したのは潮の香りがする雨が降った日だった。
屋根をオレンジに染める、それ。
正直、せつらはほぼ無意識でそのイクラの大群を潰していた。
流石のメフィストも、せつらに連れられてその『現場』を目撃した時は
声も出なかった。
お寿司に乗っているイクラならいいが、あれが大量に並んでいた日には……
いやはや、あまり考えたくない光景だ。
せつらは、今日の寿司屋は特売だろうか、と考えながら、
湯のみのお茶を飲み干した。
どうも、お久しぶりです(びくびく)
久々に書いた<魔界都市>がこんな気持ち悪い話になるとは、
誰が想像したでしょう。私にも分かりませんでした。うう、ごめんなさい。
でも、思いついてしまったんですもの仕方ないですよね。
次回は切ないので。がんばります。(予定) いずみ遊 2003年8月4日
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