人間になりたがったのは、ピノキオ。
ピノキオになりたいのは、僕。
神様とはなんでこんなにも不公平なのだろう。 |
ピノキオ *いずみ遊*
せつらはぱり、と小気味のいい音を立てて割れたせんべいを両手に、
じっと皿を見つめた。
彼へのお土産のつもりで持ってきたせんべいは、何時の間にやら
せつらのお茶請けとして出されていた。
「……。しまった」
しかも、自分はその状況に甘んじただけではなく、土産を渡した相手よりも
多くを消化しようとしていた。
もうそろそろ、舌も醤油のほのかな辛味に慣れてきていた。
――……ざらめが欲しい、など、この上……。
じわりと手のひらに滲む汗。
「気にしないでくれたまえ」
作業に没頭していたはずの部屋の主が、せつらの一言を受けて言った。
姿は見えなかったが。
何処まで続くとも知れぬこの部屋の何処かに居るのは確かだ。
――……ちくしょう。相変わらずいい声だ。
十数分ぶりに聞く声は、せつらの体温を上昇させるのには効果的だったと
言えよう。
しかし。
「……君が直ぐにまたお土産を持って訪ねてくれればよろしい」
ワンテンポ遅れて波に乗ってきた音波は、まるで津波のようにせつらを打ちのめした。
ざぶん。
「……」
再び、紡ぎだされる静寂。
せつらは豪奢なソファーの上で、漂流していた。
このままでは東西南北の位置も分からなくなってしまう。
いや、そんなことはない。太陽が昇るのが東で、沈むのが西だ。
ええと、では、右も左も分からなくなってしまう。
……それは更に嘘だ。
右は自分から見て右手がある方で、左は自分から見て左手がある方だ。
どうも、思考があちこちに飛ぶ。
両手に持ったせんべいはそのままに(良かった、これで、食料はとりあえず
確保出来ている。)せつらは、暫し瞳を閉じた。
これで、とりあえずは東西南北を分かることは不可能だ。
”君が直ぐにまた……訪ねてくれればよろしい”
君が、とはつまり、せつら自身のことで。
直ぐに、とはつまり、明日でもいいということ。
訪ねる、とはつまり、せつらがこの部屋にやって来るということ。
よろしい、とはつまり、許可するということ。
一つ一つの言葉を分解して波に浮かべて。
ぷかぷかと。
いつか大きな口をしたクジラがやってきて、
この言葉ごと僕を飲み込んでくれる。
そしたら、僕はピノキオになれるだろうか。
「……ら、……せ…ら、せつら」
聞き慣れた、けれど未だに慣れることの無い声が、
せつらを真っ暗なクジラの腹の中から引きずり出した。
「起きたまえ。
日はとっくに暮れている」
漂流中というのに、よくもまぁ、眠れたものだ、と
せつらは覚醒しつつも思った。
「眠いのならば、家で眠ればよかったではないか。
わざわざ配達の帰りに寄ってくれたのは嬉しいが……」
嬉しい。
せつらはその言葉の裏に潜む意味を割り出そうと、
瞳を開けた。
当然の様に目の前に現れる、白い影。
ぞくり。
背中から這い上がる快感にも似た……――
「……家に帰る時間が惜しかったんだよ。
別にお前に逢いに来たわけじゃない」
するりと、滑った言葉。
いつも通りの言葉。
――……しまった。
ちくり。
「……伸びないじゃないか、おじいさん」
鼻を押さえて呟いたせつらに、彼が訝しげに眉を顰めた。
人間になりたがったのは、ピノキオ。
ピノキオになりたいのは、僕。
おまえに嘘を吐く度に、この鼻が伸びてしまえばいい。
――……こんな苦しい思いをしてまで嘘をつく罰として。
いずみ遊 2003年6月27日
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