秘め事 *いずみ遊*







 電話の鳴る気配を感じ、
今朝からずっと動かし続けていた手を休めた。
カルテの山に埋もれている電話機を探し出した所で、
電話が鳴った。
院長室直通の電話番号を知っている者は限られている。
受話器を取る瞬間、ああ、彼だと思った。

「もしもし、僕だけど」

 少し間延びした声が受話器から聞こえる。
やはり、彼だった。

「君から掛けてくるとは珍しい。
新手の病原菌でも発見したのかね?」

 すると、彼は溜息をついた。

「……あのね、おまえの脳みそには病院のことしか
入って無いのか?」

 そうであれば、どんなに幸せか。
心の内でそっと呟く。

「さしずめ、君の頭の中にはせんべいのことしか
入っていないのだろう?」

 問い返すと、彼は暫く黙った。
後ろでは何の物音もしない。
家でくつろいでいるのだろうか。

「……そうだったら、幸せだろうね」

 期せずして、同じことを思っていたらしい。

「仕事は休みかね。それとも、バイトに任せっきりか?」

「うん。そう。
おまえは何してるの?」

「……朝から手術を30回して、カルテを書いていた所だが」

「大変だね」

 おかしい。
何時もならば、この様な会話は成立するはずが無い。

「やけに素直だな、せつら」

「そうかな。何時も通りだよ」

 彼はそう言うと、再び口を閉ざした。







 何も言わない受話器に耳を当て、
彼の呼吸音と、心臓音が聞こえてこないかと、耳を澄ます。
病気だ、と苦笑する。
けれども、彼の立てる微かな音ですら手に入れたいと、
そう、思う。
呼吸も、脈も、全て彼が生きる為のもので、
自分への行為では無いと知っているのに……――






「メフィスト」

 突然、せつらが名前を呼ぶ。

「何かね」

「僕を待つのに慣れた、って……どういうこと?」

 それが本題か。
嫌な事を言い出す。
――彼が、嬉しい事など言ってくれた試しはないが。
どう切り返そうか。
あれは、言うべきではない言葉だったのだ。

「せつら、それは忘れていい」

「何故?」

「君も困るだろう?」

「何に?」

「……せつら」

「分からないよ、メフィスト。
慣れたから、耐えられるってこと?
それとも、もう、十分だってこと?」

 問い詰められる。
何時もは、逆の立場なのに、と少し可笑しくなる。
けれど……――

「それを知って、君はどうするのかね」

「どうって……」

 立場は逆転する。
The End.
せつらには次の言葉を続けられない。


 彼が問いかける理由も、躊躇う理由も、本当は知っている。
彼の何気ない一言が、ここ最近変わってきている。
「おまえは嫌われる」と、
この間、彼はそう口にした。
「おまえが嫌い」ではなくて。

 ――おそらく、気持ちが傾いてきているのだと思う。
彼は待っているのだ。
私が、以前の様に想いを吐露する時を。








「用はそれだけか、せつら」

「……藪医者」

「何とでも言いたまえ。
私には私を求めてくれる幾百の患者が待っている。
仕事が忙しいのだ」

「もう、二度とこっちから掛けないからな!」

 潔い台詞を残し、電話は向こうから切れた。
思わず、笑みが零れる。
掛けない、か。
おまえから、掛けて来い、と。
言ってくれる。







 心ごと、丸ごと全て欲しいのだと言ったら、彼は笑うだろうか。
そんなことは不可能だと言って、するりと逃げていくだろうか。
ならば、初めから全て無かったことにしてしまおう。
全てが手に入らないのならば、意味が無い。

 だから、電話は掛けない。
彼の待っている言葉も決して口にしない。
負けず嫌いの彼が、どこまで保つか。











 ――……堕ちて来い。
祈りの様に、呟いてカルテに目を戻す。










 待つのには慣れた。
けれど、苦痛を感じなくなったとは、誰も言ってはいないのだ。









いずみ遊 2002年4月25日



*ブラウザを閉じてお戻り下さい*