Count sheep *いずみ遊*
空に懸かるは、三日月。
まるで獣の爪に引っ掛かれたような、鋭利な月。
きっとそのうちに、空は痛みに涙を流し始めるだろう。
「今日は泊まっていくのかね、せつら?」
読書をしていた医師がふと顔を上げて、そう訊ねた。
時計は十一時過ぎを指している。
「んー……、ベッドは一つ?」
頭の中で店にある在庫のせんべいを換算しながら、せつらが答えた。
医師からはその表情すら伺えない。
何故なら、せつらはソファーに寝そべり雑誌を眺めていたから。
碌な会話も無く、二時間この状態が持続されていたのだと知ったら、
人々は彼らが一体どのような関係なのか、と勘繰るだろう。
残念ながら、直接彼らに尋ねることが出来る、ダイアモンド並の堅さの
心臓を持つ人間は未だに現れない。
「君が望むならば、それでもいいが……」
「素直じゃないな、メフィスト」
よ、っと勢いをつけ、せつらは躯を起こし、ソファーの上で胡坐の姿勢を取る。
ボサボサの髪を手櫛で直し、それからメフィストを振り返った。
二時間、寝そべっていたので、少々頭が重いし、目も痛い。
「恋人からのお誘いには二つ返事でおっけーださなきゃ」
努めて明るいトーンで切り替えした言葉。
しかし。
「君と私がその様な関係ならば、という仮定は何処へ消えたのかね?」
何の感慨も無くするり、と医師の口から出た科白に、
せつらは微笑みながら、無意識に左手の手首を右手で握り締めていた。
簡単にシャワーだけ浴びて外に出ると、メフィストはまだ飽きずに本を読んでいた。
何でも、わざわざ英国から取り寄せた古書らしい。
せつらの親指ほどの厚さがあるそれには、一体何が書かれているのだろう。
「……おやすみ」
傍らを通り過ぎ様、消え入るような声で囁く。
「あぁ」
生返事で返されて、やや憮然とした表情を作りながらも、せつらは何も言わずベッドに潜り込んだ。
ひんやりと冷たいシーツの感覚が、気持ちよい。
大きなベッドで思い切り手足を伸ばす。
踵に擦れるシーツのむず痒さ。
肩にどっと、一日の疲れが圧し掛かってきた。
メフィストはベッドのある側だけ、明かりを消した。
煌々とした電灯に浮かび上がる黒檀の大デスク。
せつらの視線が、何処か遠くを彷徨う。
まるで、光と影で線を引かれたかのようだ。
目に見えない境界線がある。
そんな気が、した。
「遠すぎ……」
呟きも、暗闇の引力に引かれて、医師までは届かない。
――中々寝付けずに、寝返りばかりが増えていく。
「眠れぬのかね?」
境界線の向こうから、声が掛けられる。
せつらは数えていた羊が柵から逃げ出すのも構わず、瞳を開いた。
何時の間にかにより深い闇が、自分の背後から伸びていた。
「……電気が点いてちゃ、眠れない」
背を向けたまま言うと、メフィストがそっと息を吐く気配がする。
「君がデリケートな男だったとは知らなかった」
彼はしかし、部屋の明かりを全て消して、布団を半分捲った。
「シャワーは?」
「入ったが。……気付かなかったのかね?」
「羊を6089匹、飼い慣らしたところだった」
微かに笑いが漏れて、するりとせつらの隣の空間が埋まった。
触れ合うことも無い、熱。
けれど、それが今、自分の躯の欲しているものだとせつらは素直に認めた。
「寝るの?」
「寝ては不味いことでもあるのかね?」
「……無いけど」
背を向けて、大きなベッドで二人。
それがどんなに切ないか、苦しいか、
そして、それでも猶、嬉しいか……――
羊が6090匹、羊が6091匹…………。
せつらは手放した羊を強引に柵に押し戻し、更に飼い慣らそうと躍起になる。
しかし、それは幸福なる時間への暇つぶし。
「めふぃ……?」
そっと名前を呼び掛けて、彼が寝入ってしまったことを確認する。
すると、せつらはそっと、慎重に慎重を重ねて半身を起こす。
安定感のあるベッドが軋まないことが唯一の救いだった。
「めふぃすと」
月明かりに照らされた横顔を暫し見つめる。
心が酷く痛む。
じわりと汗ばむ手を、メフィストの躯の向こう側に置く。
せつらの影が、メフィストの上に落ちる。
動いているのか、目を凝らしても分からないような速度でゆっくり顔を沈めていく。
初めに触れるのは髪。
それから、吐息。
そして、熱。
最後に、唇。
起こさぬように、柔らかく、けれど決して清らかとは言えない程度に。
――涙が零れてしまう……。
近付いた速度とは反対に、せつらは一瞬で再び布団に顔を埋めた。
涙が流れるのは、メフィストへの罪悪感か、
それとも、こんなことをしなければならない、自分自身への慰めか。
せつらには、分からなかった。
三日月が窓の淵に懸かる。
部屋の中が、また少し、暗くなる。
――それは、空の代わりに声を押し殺して泣いているせつらを隠すようでもあり、
曖昧な表情を浮かべながら、唇に指を這わすメフィストを隠すようでもあった。
いずみ遊 2003年5月9日
*ブラウサを閉じてお戻り下さい*
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