平穏なる生活 *いずみ遊*
二人でいることが特別、などと思ったことは無かった。
「今朝も何時ものように、朝が来たんです。
台所からは、味噌汁のいい香りがして、……なのに」
気の弱そうな男は、そこで言葉に詰まった。
お茶をすすりながら、話を聞いていた秋DMSセンタの所長、秋せつらは首を傾げた。
あろうことか、せつらの顔を凝視してしまった男は、更に
数秒間、口を開くことが出来なくなってしまった。
――あまりの美しさに、自分が人間であることを忘れていたのだ。
「奥さんがいなくなっていた、と」
せつらがのほほん、と話の流れを作ってやると、男は何度かどもりながら、
そうです、と頷いた。
「何分、今朝のことなので、警察も動いてくれなくて。
うちのが突然家を出て行くようなヤツではないと言っても
信じてもらえないし……。それで、秋さんなら、と」
中肉中背、特に特徴は無い。
ここ、<新宿>ではそんな男でも、途端に豹に変化したり、
手首に埋め込んだ銃器で何十人、何百人もの人間を殺したりする。
が、せつらの目には、彼は到って普通の人間――<区内>では
異常だが――の様に映った。
さりげなく忍ばせた妖糸も、彼が武器類を一切持ち歩いていないことを伝えていた。
「奥さんの写真はお持ちいただけましたか?」
「はい、こ、これです」
男がバックから出したのは、紅葉した山を背景に夫婦二人で取った写真だった。
幾分、髪が長い男と、美しく微笑む女性が映っている。
「美江と言います。これは、去年、立山に行った時に撮った写真でして……」
その旅行の仔細まで喋りだそうとしていた男は、はた、とそこで思いとどまった。
それは、依頼には何の関係もないことだったからだ。
しかし、人捜し屋は、気にした風も無く、聞いていた。
「いいですねぇ。僕は、<区外>にはあまり出ないので、羨ましい」
本当に、羨ましいと思っているのかどうか分からぬ口調でせつらが微笑む。
それでも、男は嬉しそうに笑って、素晴らしい旅行でした、とだけ言った。
せつらはざらめに手を伸ばした。
幾つかの情報屋をあたる覚悟をしていたのだが、美江はすぐに見つかった。
けれど、それがあまりに意外なところだったので、せつらは電話口で聞き返してしまった。
『だから、メフィスト病院に入院中だって。
俺の腕を信用しないっつうなら、デブの所に掛けなおしな。』
腕は確実にどの情報屋よりもずば抜けているが、料金もずば抜けている女情報屋の
顔を思い浮かべ、せつらは、いや、ありがとう、と電話を切った。
それから、暫く、電話を凝視。
メフィスト病院。
せつらにとって、鬼門とでも言うべきそこは、何故か副業の度にその名が出てくる。
――今日は、方角が悪いから、方違え、とは行かないかなぁ。
方違えをしても、結局行くところはメフィスト病院に変わりは無いのだが。
溜息。
「院長は、外出中です」という返答を期待して、受話器を再び取った。
『……随分、早いな』
ダイヤルを回す前に、声が流れた。
「……は?」
『電話をしようとしていたのかね?』
紛れも無い、いや、間違いようが無い。
ドクター・メフィスト。メフィスト病院院長の声だった。
「いや……まぁ……」
歯切れの悪い返答をしながら、せつらは顔を思い切り顰めた。
相性が悪い、という訳ではない。
むしろ、一緒に話していれば楽しいし、まともに話が通じる少ない人物だと言えた。
けれど、生理的に受け付けない部分がある。
『では、切るよ』
大した用事でも無かったのか、先方は早々に切り上げようとする。
が、せつらが返答しないのを訝しいんだのか、何か?と低く問う。
「……あんたに用があるんだけど。非常に不愉快なことに」
電話の向こうで、暫く音が消えた。
『それは、当院に入院中の患者のことについてかね?』
「ああ、……不愉快なことに」
『しかも、女、という生き物について、……不愉快なことに?』
「……それは、別に不愉快じゃないけど」
そうだったかね、と言う呟きを奇麗に無視して、せつらは今から尋ねていいかと訊いた。
『私はこれから外出するが』
その方が好都合だ、と受話器に向かって思いっきり低い声で返す。
何故、声を低くしたかなど、せつら本人にも分からない。
なので、理由を問われる前に、電話を切った。
しかし、電話を切ってから、メフィストが電話を掛けてきた用件も
美江に関してのことだ、と確信し、せつらは更に深い溜息を吐いた。
メフィスト病院に着いて、受付に顔を出すと、「外科病棟の302号室です」と
言われ、そのままそこへ直行した。
相変わらず、メフィストは手際が良い。
この病院は彼の箱庭。
全てを采配し、掌握することで、彼は心の平安を得ている。
ドクター・メフィスト、という名を持つ男は、あれで何の変哲も無い人間だ。
せつらはエレベーターのボタンを押した。
302号室は、個室ではなかった。
けれど、目ぼしい人は、一人しかいなかった。
他の入院患者を化石にさせつつ、せつらはそのベッドに近付いた。
「山川美江さんですね?」
雑誌を捲っていた女性がせつらの方へ向いた。
「……ええ。何か?」
突然現れた、天使のような人間を見て、息を吸った美江は、
それでも二呼吸目には言葉を紡いでいた。
「人捜しをしている秋と言うものです。
あの、山川さんの依頼で、貴女を捜していました」
「まぁ、嬉しいわ」
せつらは首を傾げた。
「はぁ」
「やっぱり、嘘でも何かメモを残して置くべきだったわね……。
秋さん。貴方に見つかったと言うことは、私は連れて行かれてしまうのかしら?」
柔らかな笑みを浮かべながら、江美が問う。
その姿は少しばかり時代遅れだが、男の永遠の憧れである「いい奥さん」の
典型的なものに見えた。
…………つまり、夫を置いて、家を出て行くような女性には、
どうしても見えなかったのだ。
「いえ、この病院から患者を連れ出すなんてことはしませんが、
一応依頼人には貴女の居場所をお教えするしか……。
情報屋に聞いたら一発で分かってしまいますし」
「つまり、貴方を追い返してもいずれバレてしまう、ということね」
「そうです」
美江はそうねぇ、と考え込む様に両手を頬に当てた。
「なら、あと二日、夫に此処のことを黙っていてくれませんか?
二日後に退院予定ですから、そしたら家に帰りますので」
「……家に、帰る?」
「ええ」
せつらは、依頼に全く関係の無い質問をすべきか否か、数秒迷って、
おずおずと口を開いた。
「何故、家を突然出て行ったのですか?」
「夫を守るためです」
「……ええと……」
せつらが困った顔をすると、百人中九十九人は、何とかしようと
頭をフル回転させる。美江も例外ではなかったらしい。
慌てて、言葉を続けた。
「あの人、あんなおっとりしていて、結構重要なお仕事をしているのです。
でも、あの性格だから、誰かに恨まれているとか考えたことも無いみたいで。
ですから、私があの人を守る為に、少し、刃物を振り回しているの。
…………あの、このことはあの人には……」
「ああ、いえ、言いませんから」
主人に負けず劣らずおっとりとせつらが言うと、安心したように美江が胸を
撫で下ろした。
せつらは、では二日だけ待ちますから、必ず家に帰ってくださいね、と
言って病室を出ようとした。
「この街で二人で過ごす、というのは、大変な努力が必要なのです……」
呟いた美江は、窓の外を見ていた。
独り言らしい。
せつらは静かに扉を閉めた。
『彼女は今日、無事に退院していった』
声の主は、何時もの静謐さの中に温かさを交えてそう言った。
せつらは受話器を片手にせんべいを貪りながら
どうでも良さそうに返答した。
「そうかい。それは良かった」
依頼人の行く末など、まるで興味がないと、暗に言っていた。
『これからこっちへ来る気は無いかね?』
「何故?健康診断なら十日前に受けた」
『君と私を繋ぐのは、それだけか……』
語尾が、感情で流れている。
これ程分かり易い男もそうはいまい。
「当たり前だ。お前は医者で、僕はせんべい屋だ。
何処に接点がある。
しかも、藪医者なんかと親しくしたって、百害あって一利なしだ」
『……そうかね』
「……なんだよ」
『何でもない』
「……」
せつらは相変わらず鬱陶しい医師に、フックを押してしまおうかと考えていた。
この街で二人で過ごすのは難しい?
それは大変結構なことで。
「用が無いなら、切るよ」
『……』
「いい加減にしないと、僕はお前を主治医から自称主治医に格下げするぞ」
『……あまり変わりあるまい。』
電話は向こうから切られた。
怒ったのだろうか。
しかし、受話器を置きながら、せつらはまた確信してしまった。
それは、はっきり言って、嫌な確信だった。
メフィストがこの三日間、外にいたのは、美江の代わりに依頼人を守るためだったのだ。
「何で、こういうところだけ、手際が悪いかな……」
手を伸ばした先に、せんべいは残ってはいなかった。
根底にラブが見えるというのならば、あなたは末期の白黒好きなのでしょう。
私には決して見えません。ええ、見えないのです。 いずみ遊 2003年3月30日
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