その瞬間 *いずみ遊*













 突然、空に雨雲が立ち込め、大粒の雨が大地を濡らした。







 足早に通りを歩いている黒衣の青年に、そっとオレンジ色の傘が差し出される。
しかし、これをどうぞ、という若い女性を無視して彼は歩き続けた。
何かから逃れるように。

 人々の目を楽しませていた梅も、雨の威力に負け、
花びらが多く、水溜りに浮かんでいる。
それも風情だと、詩人ならば言うかもしれない。
けれど、彼はその花びらすら踏んで、歩いた。
既に彼の髪は頬に張り付き、コートもしとどに濡れている。
今更、急ぐ必要もなかろうに、彼は一定の速さで歩を進めていた。






 街は雨の独特の香りに包まれ、凶暴な雨も春の祝福のそれへと変わった。






 彼は、廃墟の一角に立っていた。
霧雨で視界がぼやけるなか、彼の美しさだけが際立ち、
神が降臨したかと錯覚する程に絶美な光景だった。
長い冬を耐え顔を出した新芽は、十分すぎる水分に潤い、瑞々しい黄緑が目にも鮮やかだ。
彼はそこで漸く、張り詰めていた緊張を解いた。
吐息は白く、霧雨に溶けた。
春は近いが、やはり外は寒い。
彼は思い出したように身震いを一つした。

「遅いぞ、藪」

 長時間、雨の中を歩き、喉が冷えたのか、少しかすれ気味の声で彼は一人、呟いた。
静謐の支配する部屋を飛び出したのは、彼の意思だった。
しかし、濡れて感覚を失っていく手は、ある一人の温もりを求めている。






 ”……だ、せつら”

 全身に、甘ったるい痺れが走る。
 そんな顔で、笑うな。

 ”どうしたのかね?”

 差し出された手を、思い切りはたいて駆け出した。
 酷く、痛む。
 けれど、あの手を取ったら、二度とは逃げ出せない気がした。






 雲が薄く棚引き、光が漏れ注ぎ、道行く人々の頭上から傘が消えていった。






 皆が彼を振り返った。
煌く太陽の中、濡れた衣服のまま歩く彼を。
ある者は、あまりの美しさにアクセルとブレーキを踏み間違え、
ある者は、あまりの恐怖に目前のチンピラの存在を忘れた。



――そして、誰もが大金を払ってでも見たいと望む、邂逅。



「随分、酷い格好をしているな、せつら」

 路上に咲いた、一輪の白い薔薇。
否、それは……。

「酷いのは見てくれだけじゃないさ」

 意図を測りかねたのか、目の前のケープが動けなかった一瞬に彼は再び歩き出した。
それを追うものは、ビル風。

それでいい……――

散ったはずの梅が、微かに香った。










 ”それ程、私が君を想っているということだ、せつら”

その言葉を、切り返すことが出来なくなった瞬間。





――それが・・・・・・恋に落ちた、瞬間。












 一言BBS4444キリ。「恋に落ちた瞬間(黒白)」Byなずなさん。
安易なストーリーに逃げかけましたが、私らしい作品に仕上がったので、
満足しております。いえ、考えは安易ですが。
完了形だったので、まぁ、この様なカンジに。
リク、ありがとうございました。 いずみ遊 2003年3月7日




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