追懐 *いずみ遊*










 コマ劇場の前にそれはひっそりと立っていた。
それ、というのは可笑しいかもしれない。
立っているのは明らかに女であったからだ。
滔々と湧き出す水に、半ば脚が浸かっている。
通りすがりの<区民>は気味悪げに女を見て、直ぐに顔を元に戻した。
他人のすることにいちいち興味を持っていたら、
この街では一日に十歩も進むことは出来ないだろうから。










「だから、何でおまえの不始末に僕が手を貸さなきゃならないんだよ」

 西新宿にある、言わずと知れた煎餅屋の奥から、店主の声が店先へと流れた。
運が良いのか悪いのか、偶々居合わせた観光客の一人が
その声のあまりの美しさに眩暈を覚え、床に倒れこんだ。
これでは、折角店に来ても、店主の顔すら拝めないではないか。
バイトは頼まれた煎餅を袋に詰めながら、注文を聞いた後でよかった、と嘆息した。
日常茶飯事なので、今更驚いたりしない。

「ああ、そうさ。知らなかったのかい?
僕の本業はせんべい屋だ。藪のすることに興味なんて一ミクロンも無い」

 茫洋と、しかし、腹立たし気に相手に向かって大声を出している。
珍しいこともあるものだ。
袋にセロハンテープを貼ってから、バイトは漸く、
倒れこんだ女性を店内にある椅子に座らせた。
彼女の連れはまだ恍惚と店の奥、つまり声の主の方へ視線を向けている。

 こんなんじゃ、店長の電話相手の声を聞いた日には、
心臓麻痺で死んじゃうわね、とバイトは肩を竦めた。
ここ、秋せんべい店でバイトを始めて二週間になり、
店長である秋せつらの声は聞き慣れてきた彼女ではあったが、
先程受け取った電話の主は、そんな彼女を最初の一声で骨抜きにせしめた。
ドクター・メフィスト。<魔界医師>
自分でも、よく店長に取り次ぎが出来たものだと感心した程だ。

 バイトは潤んだ瞳であらぬ方向を見ている女性の前で
手を振って、注文した煎餅を手渡した。
渡された女性は漸く、現実世界に戻ってきたようで、目を数回瞬かせた。
しかし、それもつかの間、

「全く……」

 呟きながら電話を終えたらしい店主が店に下りてきて、
辛うじて立っていた一人も床に倒れこみ、バイトがひっそりと舌打ちをした。










「おや、お嬢さん。昼間っから一人でこんな公園で何してるんだ?
しかも、えらく別嬪さんじゃないか」

「まぁ、私、奇麗ですか?」

「ああ、ここ20年お目にかかったことがないくらい美人さんだ。
こんな小さな公園で、危ないだろうに」

「この公園、ブランコもないんですね」

「<魔震>で倒れちまったんだろうな。
あのきこきこと言う音も暫く聞いてないしなぁ……。
それにしても、如何してこんなところに?」

「これから<区外>へ行こうと思いまして。
その前にこの街をよく歩いてみようかしらと」

「<区外>へ行かれるのか。それは難儀だなぁ。
向こうへ行っても頑張ってくれよ」

「まぁ、今日お会いしたばかりなのに」

「いや、何だかおまえさんの声を聞くと懐かしくてね。
ひょっとして、どこかで聞いたことがあるのかもなぁ……」











 ころころと転がるボールが、大きな男の足元で止まった。
可愛らしいゴムボールで、ピンク色をしていた。

「おじさん、ボール取って」

 道の向こうで、ワンピースを着た4歳くらいの女の子が
手を振っていた。

「兄貴、行きましょうぜ」

「ああ」

「兄貴」、と呼ばれた男は、連れを一瞬見てから、また道を振り返った。
そして、足元のゴムボールを拾った。
何をするのか、と「兄貴」を見た子分が、一瞬、驚きに目を開いた。
この界隈で、知らぬ者のいない新興の暴力団の幹部で、
これから新たな武器の取引に出かけようと言う「兄貴」が
傷のある頬を歪め、ボールを女の子の方へと投げてやったのだ。
しかも、それはゆるやかなカーブを描き、柔らかに女の子の腕の中に収まった

「ありがとう、おじさん!!」

 ぺこりとお辞儀する。二つに結わえたポニーテールが揺れた。

 子分が開いた黒塗りの改造車に乗り込みながら、「兄貴」はぽつり、と
「懐かしくてかなわねぇな」と漏らした。











 新宿高校の終業のチャイムが鳴ったとき、
近くで井戸端会議をしていた主婦達のお喋りが、一瞬途切れた。
それは、不思議な間で、しかし、誰も次の話題が口から出てこなくなってしまったのだった。
しかし、チャイムが完全になり終わり、
いち早く教室を出てきた生徒の第一陣が門を出る頃には、
何事も無かったように、また話に花が咲いていた。











「いやぁ久々でしたよ。酔った亭主が、お寿司を土産に帰ってくるなんて。
私は、何時の時代よ、って笑ってやったんですが、嬉しかったです。
何年ぶりかで夫婦2人でお酒なんて飲んじゃって。
そしたら、酔っていたんでしょうね、階段踏み外しまして。
お恥ずかしい話です」

 外来でやって来た年配の女性がはにかみながら話しているのを聞きながら、
医者は、首をかしげた。
同じ様な話を今日は三度ほど聞いている。
何処かの寿司屋で、土産を大売出しでもしているのだろうか。
医者はそれ以上思考を進めず、「では、お大事に」と患者を送り出した。
骨折など、<魔界都市>では、怪我のうちにも入らない。












 月の奇麗な夜だった。
白い月は、特定の人間を思い出させ、嫌な気分になるが、
今日の月は黄色。<新宿>では滅多に白い月など見られない。

「<区外>に行かれるんですか?」

 美しい声に、四谷ゲートの上で立ち止まったのは、
コマ劇場の前に立っていた女だった。
怪訝そうに、ゲートの橋の欄干に腰掛けている男を見る。

「ええ、そうですが」

 女が答えてしまったのは、男のこの世のものとは思えぬ美しさが所以だったのかもしれない。
それとも、ただの気まぐれか。
女の表情は全く動かない。

「いえね、プライドだけは宇宙一な藪医者がいまして、
貴女が病院から逃げた、探し出せって、煩いのなんのって」

 男――秋せつらは、ひょいっと欄干から橋の上へと飛び降りた。
真下が亀裂だということを考えると、恐ろしいことこの上ない。

「別に、私、逃げてなどいませんわ」

「ええ、そうでしょうとも。あの藪が被害妄想に陥っているだけ」

 せつらはにっこりと笑った。それだけで並の女ならば呼吸困難に陥るだろう。

「では、用が無いのでしたら、私は」

 女は特に気に留めず、<区外>へと歩みだした。
せつらはそれを見送った。

「……人の形を取れて嬉しいですか?」

 答えを期待せず放った問いに、女は頷いた……様にせつらには見えた。
彼女は既に、せつらの視界からは消えていた。













「やーぶやぶやぶやぶ。
藪は藪らしく、人の為にならないことをしてればいいんだ」

 メフィスト病院の院長室で、せんべいを頬張りながらせつらは憤っていた。
せんべいを食べるか、喋るか、怒るか、どれか一つにしたまえ、と
メフィストが忠告した所、三つとも同時にやるという暴挙に出たのだ。
人知れずメフィストが溜息をついたのもむべなるかな。

「煎餅の売り上げが伸びたことは、いい。
いや、良くない。おまえのやることなすこと全てが僕に悪影響だ」

 二枚目のざらめに手を出しながら、せつらは
目の前で悠々とお茶を飲む医者を睨付けた。
メフィストはその視線へ、ねっとりと熱い視線を返しながら

「それは君が私の想いを受け取らないからではないかね」

 と言った。

「あー、残念だ。それじゃぁ、僕にとっておまえは一生悪影響だ。
悪性腫瘍だな。手術して欲しいくらいだよ」

 ソファーに深く座り込み、せつらはしきりに残念だ、残念だと
繰り返した。

 メフィストは厚焼きを一枚手にとって、口に運んだ。
せつらがメフィストに土産として持ってくる厚焼きは、
大抵欠けているか、焦げている。

「何で人の形をとらせた」

「分からぬ」

「……分からないで手術したのか?……藪もここまで来ると、救い様が無いな」

 焦げた煎餅が苦かったのか、メフィストはせつらが半分に割ったざらめに手を伸ばした。

「無性に懐かしくてな。帰り人の時もそうだった」

「あの人を追っていた時も、聞いた人みんなが、『懐かしい』を連発してた。あれは何だ?」

「言葉では表せぬ。……例えば、君の家が壊れたら君はどう思うかね」

「就職どうしよう」

「君のリアリストっぷりは死ぬまで直らぬだろうな」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 ぱり、と焦げの部分を上手く除けて厚焼きを割ることに成功したせつらは
焦げた方を皿に戻した。

「長年培ってきた愛情、とでも言うのか……。
あれは<新宿>の哀愁なのだよ」

「……はぁ」

 よもや<魔界医師>から哀愁など語られるとは思っていなかったので
せつらはまじまじとメフィストを見てしまった。

「人々が『懐かしい』と思うものの集大成だ。
もう少し、色々と調べてみたかったが、あれが<区外>へ行きたいと
言うならば、引き止めることも出来ぬしな……」

「……煎餅は『懐かしい』食べ物か」

 厚焼きの最後の一口を口に放り込みながら、せつらは
ワントーン、声の高さを低くして、呟いた。
彼なりに落ち込むこともあるらしい。

「それは君が考えるべきことだ」

 メフィストは急須の中身を入れ替えようと立ち上がった。
<魔界医師>にそこまでさせるのは世界中を探しても、
秋せつらという名を持った名前だけだろう。

「奇麗になって、嬉しそうだったぞ、彼女」

 メフィストはそうかね、と言った。

「何故女にした?男でも構わないだろう?
それとも宗旨変えでもしたか。僕は大歓迎だけど」

 せつらの問いを背に受けて、メフィストは窓の外を見た。
何処までも広がる高層ビル。
しかし、十数年前、この街は確かに壊滅状態で彼の目前にあった。

「さて、な」

 女が全ての生みの親だからだ、とは
彼の口が裂けようとも言える事では無かった。














いずみ遊    2003年2月20日





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