停滞 *いずみ遊*










「――で、何の用かね?」

 <魔界都市>新宿。
ここで、一番知られている病院と言えば、
区民ならずとも一も二もなく『メフィスト病院』と答えるだろう。
史上最悪と言われた凶走集団『フリークス』を一夜で壊滅させた時から、
この病院の院長は「決して手を出してはいけない相手」と認識されている。
患者には、神のごとくの愛を。敵には、悪魔のごとくの制裁を。
それが、ドクター・メフィスト。<魔界医師>である。

 そんなメフィスト病院の院長室で、しかも、院長の目の前で、
ソファーに踏ん反り返って、新聞を読んでいる人間がいる。
この状況を見た者は、恐怖に身が竦むという『症状』が表れるに違いない。
が、当の本人は、恐怖に震えてもいなければ、狂ってもいない。
のほほん、である。

「用なんかない。
用がなきゃ来ちゃいけないの?」

 唇を尖らせる様は、良家のお坊ちゃんだが、
それが彼のほんの一部分でしかないことを少なからぬ人が知っている。
秋せつら。
メフィストへ対する挑戦とも受け取れる行為を平気でやってのけるのは、
いくら<新宿>でも、彼しかいない。

「そういうわけではないが……」

 メフィストが珍しく、返答に詰まる。
この世のものとは思えない、天上の美貌。
彼が存在する所ならば、どこででも、天国に思えるだろう。
ただ、彼の美の為に。

「なら別にいいでしょ?」

 ちょこんと小首を傾げて、せつらが言う。
他の男がやったら、ぶっ飛ばされそうな仕草でも、
せつらがやれば許される。
その醇美さ故か、茫洋とした雰囲気故か。
その仕草を見た者にはどちらにしろ行動は同じである。
体温が上がり、固まるのみ。
ただ、メフィストは例外で……。

「最近、よくここへ来ているらしいね」

 何も無かったように言葉を発する。
せつらは漸く、新聞から顔を上げて、やっかいな白い医師を見上げた。

「……来ちゃ拙いことでもあるの?」

 嫌な事を聞くな、と、不機嫌丸出しの顔をしてから、
ふと、チェシャネコのような笑みを見せる。

「そういえば、僕が来る日に限っていないんだよね、おまえ」

 ぱさり、と新聞を折りたたんでテーブルに置く。
メフィストはゆったりと、せつらの向かい側のソファーに腰掛けた。
白いケープが美しい陰影をつくる。

「『来る日』ではなく、『来る時間』の間違いではないのかね」

 メフィストは尤もなことを口にした。
せつらはここ二週間、ほぼ一日おきごとにメフィスト病院を訪れているのだ。
いくらメフィストが多忙でも、二週間のうち病院にいない日はそう多くは無い。
チェシャネコはまたもとの不機嫌な顔へと戻っていた。

「大差ない。
そうやって相手の言葉尻を捕らえるから、おまえは嫌われるんだ」

「……ふむ」

 せつらの、どう考えても理論的でない言葉のどこに納得したのか、
メフィストは呟いた。

「しかし、用が無いのに、何故病院へ来る必要がある?
ストライキでも起こしたのかね」

 そう、秋せつらとて、ただの暇人ではない。
年収3000万円のせんべい屋と、新宿一の人捜し屋である。
忙しくない筈が無いのだ。

「……だから、来る理由なんて、ない」

 言い含むように、せつらは一言一言を区切って言った。

 メフィストは軽く、溜息をつき、美しい夢の様に立ち上がった。
黒髪が煌く。
院長室には日光とも言えず、照明とも言えない不思議な光が満ちていた。
その中を、メフィストがゆっくりと移動する。
それを追って、せつらの目が動く。
やがて、メフィストはせつらの背後に回り、足を止めた。
人間のものとは思えない繊手を、そっと、ソファーの背もたれに置く。
せつらは前を向いたまま、身動きをしなかった。







「せつら」

 低く囁かれる、声。
その声を合図としたかの様に、せつらは背もたれに頭を預け、
額にメフィストの口付けを受けた。

「ここへ来たければ、来ればよい。
何をしても構わん。患者に被害のない限りはな」

 最後の台詞が、あまりにもらしくて、せつらは思わず笑みを漏らした。
メフィストは何時の間にか、せつらの横に腰掛けていた。
せつらの黒いインバネスと、メフィストの白いケープと。
それだけを見ても、目が眩む美しい光景だった。







「訊かないの?」

 不意に、せつらが口を開いた。

「訊いて欲しいのかね?」

「分からない」

「では、訊ねよう。この部屋で何をしているのかね」

「何も。ただ、ボーっとしてる」

「そうか」

「そうだよ」

 謎掛けの様な魔人二人の会話ではあるが、只管穏やかな空気が流れる。
どの様な会話でも、仮令、それが戦場での会話であっても、
この二人の間で交わされるのは、静穏な会話のみである。

「何を、考えている?」

 この問いに、せつらはゆっくりと、顔をメフィストの方へと向ける。
メフィストは前を見つめたままだった。

「……ここへ来て、おまえがいないって分かると、
『手術かな、それとも往診かな』って考える。
でも、それなら受付のおねーさんがそう言ってくれるだろうから、
『ああ、誰かに会いに行っているのかな』って思う。
それから、……何を考えてるんだろう。
仕事のことかもしれないし、おまえのことかもしれない」

「ダミーは?」

 メフィストが院長室にいない時には、そのダミーが代わりにいる時もある。
メフィストはそれを指して言った。
けれど、せつらは力なく、首を横に振った。

「何を話せって?
あれはおまえじゃない。
あれがいる時は、即刻帰ることにしている」

「……そうかね」

 メフィストはそのまま口を閉ざした。







 静寂が、部屋を包む。








 メフィストに言った言葉に嘘は無かった。
せつらは、ソファーに身を深く沈め、瞳を閉じた。
この二週間、仕事の合間ふと時間が空くと、ここへ来た。
会えない事は分かっていた。
メフィストがせつらを呼び出さない限り、
メフィストが院長室にいるのは稀なことなのだ。

 手術でもなく、往診でもない。
メフィストの行方を考えることは、初めの二日で止めた。
せつらにも、せんべい屋にいず、人捜しもしていない時がある。

 清涼とした空気が流れるこの部屋で、取り留めの無いことを考えていた。
かなりの時間を過ごすこともあったが、すぐに帰る日もあった。
ただ、メフィストと会うことだけはなかった。
敢えて、会おうとはしなかったのだ。
だけど……







「疲れたよ、メフィスト」

 知らず、口から言葉が零れていた。

「待つのは、疲れるね」
――おまえも、疲れただろう?

 言った途端、メフィストに抱き寄せられた。
白いケープが音も無く、波を作る。


「せつら」

 耳朶に、吐息が触れた。
その熱に、眩暈がする。
普段のメフィストからは考えられないくらい、情熱的な声。
抱き寄せられる寸前に辛うじて見えた瞳。
そして、何よりも全てを雄弁に語る抱きしめる腕の力強さ。
あらゆるものが、せつらを篭絡しようと、絡み付いてくる。
せつらは、その意思に従うがごとく、メフィストの背に手を回した。





  ――本当は、こうやって抱きしめて欲しかった。
何時でも逃げ出せる様に、と、優しく緩められた腕はもういい。
もっと、劣情にも近い、そんな感情を見たかった。

「もうすぐ、お戻りになります」と言われればすぐに帰った。
「今日は、遅くなると思います」と言われたら、何時間でも居座った。
もしかしたら、試していたのかもしれない。
この部屋に、この男が住む部屋に、影だけを残して、
早く、追いかけて来いと
おまえの引いた一本の線を飛び越えて来いと
そう、試していたのかもしれない。










「すまない」

 ゆっくりと、メフィストの腕から力が抜けていく。
名残惜しげに、そっと背骨をなぞりながら、離れていく……――

「……謝るなら、しなければいい」

 せつらは、じっとテーブルに置かれた新聞紙を見つめながら呟いた。
甘い呪縛から開放された身体は、少し痺れている。

「おまえは馬鹿だ」

 肯定するかの様に、メフィストが苦笑した。

「君を……。いや、止めにしよう」

 メフィストはケープを揺らし、立ち上がる。

「ちょっと、待てよ。気色悪いから最後まで言え」

 せつらは慌てて、歩き出そうとするメフィストのケープを掴む。
メフィストは足を止め、せつらを肩越しに振り返る。
そして、顔を前方へと向けながら、囁くようにこう言った。






「……君を、……君を待つのに慣れてしまったからね」







 するりと、せつらの手からケープが滑った。
メフィストは何事も無かったかの様に机に向かう。
何時も通り。
何時も通り。











 そうしてメフィストは、自分の引いた線の内側へと戻っていったのだ。












いずみ遊 2002年4月16日




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