「恋なんてしたくなかった」













 Achiral *いずみ遊*












「こんにちわ、早起きのせんべい屋さん」

 ぼんやりと椅子に腰掛け、見るでも無くショーケースの方を向いていたせつらは、視線を上へ上げた。
自分と同じ、全身真っ黒の人間が、にこやかに微笑んで立っていた。

「……シビウ……さん?」

「他の誰に見間違えるって言うの?」

 濃い赤の口紅が、嫌に成る程似合っている。
見たもの全てを虜にしかねない口だ。

「あなたがこんなところに来るとは思っても見なくて……」

 あの唇が、薄く、しかし柔らかい桃の甘さを持ったあの男の唇と触れ合うのだ。
――あの瞬間を思い出すだけで、頭の中が沸騰する。

「私も来たくなんて無かったわ」

 随分と正直に言う。けれど、それが彼女。
飾りも何もない。自由気ままな女。
世界が崩壊しようとも、この女だけは、
今のまま何の苦もなく生きていくのだ。



「メフィストから言われたの。貴方に逢いに行け、って」

 シビウは店の主人の許可なしにショーケースの周りを回ってきて、せつらの隣に腰掛けた。
その身のこなしの、なんと淫靡なこと。
目の前に並ぶせんべいさえなければ、この男女が座っているだけで
各賞を総なめする映画となりうるだろう。

「何故?」

 世界中の男が羨む様な立場にありながら、一向に気にすることなく、せつらが茫洋と訊ねた。

「私、メフィストの恋人なんかじゃないわよ。
何か誤解させるところがあったのなら、謝るわ」

 シビウはじっと前を見詰めたまま呟いた。

「本当に、腹が立つわ、あの男。
自分だけは傷つかない、そういう状況を作り出すのが得意なの。
貴方も腹が立たない?
今までメフィストは全部知ってたのよ。
貴方の気持ちも、何もかも。
それでいて、全てを無視していた。
――……どうしたの?」

 せつらの方を向いたシビウは、あまりに呆気に取られた顔をしたせつらと目が合って、思わず訊ねた。

「……い、いきなりだったから……」

 寝不足の脳みそをフル活動させて、せつらは一生懸命、シビウの言葉を消化しようとしていた。

「知ってたって……メフィストは……?」

 知っていて、それでいて「シビウとはなんでもない」と言ってくる彼の心は……。

「二人のことは二人で話し合って頂戴」

 絶対零度の冷たさでシビウがぴしゃりと言った。
しかし、混乱しているせつらには、その言葉の意味するところは分からない。

「じゃぁ……?」

「私と言うお邪魔虫は、とっとと消え去ってくれ、というのがメフィストの要求よ。
……ホント、自分勝手な男」

 最後の一言は、せつらの耳には届かなかった。
せつらは小刻みに震える自分の手を見つめた。
シビウの言っていることは本当なのか?
彼女が嘘を吐く事に、利益があるとは思えない。
ならば……、それは……。



「逢いに行きたいなら、さっさと逢いに行きなさい。
客が来る前に、店なんて閉めちゃえばいいのよ」

 せつらはシビウの大胆な提案に従うことにした。
いや、自分一人だったら、店を開けっ放しにして飛び出していたかもしれない。

「ありがとう、シビウさん」

 軽やかな声で。
旧新宿区役所へと続く道を歩いていくせつらの後ろ姿を見ながらシビウは、眩しげに目を細めた。

「ホント、嫌になっちゃうわ」















「……言いたいことは分かるわ、メフィスト」

 呼び出されて、久しぶりに肌を重ねた。
愛撫する手はしっとりとシビウの肌に合う。
初めに熱を交わしたのは何時のことだか、二人とも覚えていなかったが
不思議なほど相性が良く、飽くことを知らなかった。

「貴方は彼を愛している。彼も貴方を愛している。
それは分かるの。……でも、それで貴方は本当にいいの?」

「いいから君にこの様なことを頼むのだが」

 熱っぽく掠れた声が自分の胸元から聞こえるのも、もう慣れてしまった。
シビウは艶やかなメフィストの髪を梳きながら、溜息をついた。

「本当は怖がりなのよ、貴方は」

「自覚はしているよ」

「手に入れたいものは全て手に入れる。別に、それは構わないのよ。
私もそうして生きてきたから、とやかくは言わない。
でもね、貴方は、それを恐れながらやっているの。
あの子に会ってから、もう何年になる?
その間ずっと貴方は待ち続けていた。
あの子が自分のものになるまで、ずっと。
自分の執着心が、貴方は怖いのよ」

「シビウ……」

 メフィストは顔を上げ、シビウの唇に口付けた。
羽のように、軽やかに。

「嫌いだわ。そうやって、直ぐに誤魔化そうとする」

「何をそんなに怒っているのかね」

「……冷静でいられない自分をよ。
貴方、どうして私が違う男を選んでも、平然としていられたの?」

「――君が、何れ戻ってくることが分かっていたから、かな」

「……信じられない」

「そうでなければ、君の言う私の執着心とやらが許しておくわけが無い」

 シビウはメフィストの目を真っ直ぐに見つめた。
この瞳だけは、嘘を吐かない。

「あの子は、何時かいなくなるわ。
貴方、それでもいいの?」

「――その時には、君に慰めてもらうことにするよ」

 微かに目を細めて、メフィストは返答した。
その瞳に何を見たのか、シビウは肩を竦めた。

「……少しは強くなったのね」

「君のお陰だ」

 ふいにシビウは自分の頬に手を当て苦笑した。

「やだわ……、嬉しすぎて涙が出てきた……」

 メフィストはシビウの両手を掴んで、ベッドに押し付けると、透明な液体を舐め取った。
この美しい女性の涙は一体、どのような味がするのか。

「暫くの間、お別れだ、シビウ」

「……」

「君が考えた取り決めのはずだよ」

「ええ。
今ほど、自分の行動の馬鹿さに打ちのめされたことって無いわ」

「本望だな」

 低く、メフィストが呟いた。










 二つの躯が一つに溶けて、夢のように美しい行為が行われる。
それは月明かりに照らされて、酷く切ないものに見えた。










 朝の光が深く、院長室に射し込んだ。

「貴方達ってまるでキラルだわ」

 起き抜けの声とは思えず、透き通った声が院長室に響いた。
ベッドを抜け出したシビウが、メフィストの方へ振り返って首を傾げた。

「ねぇ、メフィスト。
右手と左手の様に鏡に映せば対称なのに、決して重なることはしない」

貴方のお得意な化学よ、とシビウは微かに笑った。

「けれど、レセプターには成りうるだろう」

 メフィストはベッドから躯を起こし、シビウを見つめた。
その視線を受け止めながら、シビウは軽く瞼を伏せた。

「……そうかもしれないわね」

 メフィストはシビウへ向け、手を差し伸べた。
その手を取って、シビウは誘われるままに口付ける。

「愛しているよ、シビウ」

 離れた唇が言葉を紡いだ。











「私は貴方なんか、愛したくなかったわ」












 ――彼と貴方がキラルなら、私と貴方はアキラル。
ぴったりと寄り添って、永遠という時を、過ごすことしか出来ない。
自由気ままに生きる私を縛り付けるのは、唯一、貴方。
……本当に、何て酷い男。



















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 このラストを最初に決めてシリーズを書き始めたのですが、
これを読んだ人が一体どのような感想を抱くか、恐ろしい限りです。
何故、ドクター・メフィストはあれだけの力を持ちながら、
せつらを自分のものにしてしまわないのか。
その回答の一つとしてこのシリーズを書いてみました。
 お読みいただきありがとうございます。次は明るいの書きます(笑)

2003年1月24日  いずみ遊



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