ジレンマ *いずみ遊*






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「どうしたのかね、せつら」

 紅茶を差し出され、はっとせつらは現実世界に意識を戻す。
目の前には見慣れた顔。
紅茶にはたっぷりのミルク。
そして、おそらくたっぷりの砂糖。

「お疲れの様だな。
まだ妙な夢を見るのかね?」

 叡智を奥に秘めた瞳がせつらを見る。

「ああ……うん」

 歯切れの悪い返答に、医者としては流石に心配になったらしい。
メフィストは自分のカップをテーブルに置き、ひょい、とせつらの顎を捕えた。

「メフィスト」

 視線で先を促され、せつらは一呼吸置いて訊ねた。

「人を好きになるって、どういう病気?」













「ちょっと、店長、焦げてます!!」

 バイトの女の子の悲痛な叫びによって、せつらは慌てて煙を上げる厚焼きを引っくり返した。
が、時既に遅し。

「あちゃぁ」

「あちゃぁ、じゃないですよ。一体何枚目なんですか?!」

 怒りながらも、バイトは決して店長の顔は見ない。
傍から見ればコントの様だが、本人達はいたって真面目である。

「しっかりして下さいよね。疲れてるなら、裏で寝るか、
メフィスト先生のところに行くかして下さい!」

 全くどちらが経営者か分かったものじゃない。
せつらは苦笑しながら箸を置いた。

「何でそこにあいつの名前が出てくるかなぁ」

 ぼんやりとぼやきながら、けれど、バイトのありがたい忠告に素直に従うことにする。
そして、冒頭のやりとりへと戻る。













「どういう病気かと聞かれても……」

 メフィストは困惑気味に、せつらの顎から手を離した。
せつらはその手を自分の両手で包み込んだ。

「例えば、……例えば、こうやって触れると、胸が苦しくなる。
逢っている時は、何をしても、何を話しても気分が凄く良いのに、
でも、相手は全くこっちの気持ちなんて知らないってことに気付くと、
一気に切なくなる。どうして?」

 一息に言ってしまってから、せつらはメフィストの顔を見て苦笑した。
痛むと分かっていても、人は抜けそうな歯を舌でつつくのを止めない。
それと同じだ。

 メフィストは何かを探るようにせつらの瞳を覗いてくる。
それが怖くて、せつらは言葉を重ねた。

「キスしてもいい?」

 唐突な問い。
せつらは訊きながら、その白い頬に手を滑らせていた。

 思った通り、滑らかな肌。
けれど体温はそれ程低くない。
せつらは自分の手の先の冷たさを思った。
長い睫毛が、頬に影を落としている。
切れ長の瞳は、どこまでも漆黒で、しかし光を思わせた。
こんなに近くでメフィストの顔をじっくりと見るのは初めてだ。
せつらは不思議な気持ちに襲われていた。

「考え込むな、藪」

 せつらは、うんともすんとも言わない医者の頬をぺちりと叩いた。

――余計な、期待を持たせるなよ。














 夢を、見た。
訳も分からないけれど、僕はとても幸せな気分だった。
何故だろうと思って横を見ると、お前が笑っていた。
ああ、お前が笑っているから幸せなのか、と僕は思った。

 お前に触れようと手を伸ばした。
けれど、手は空を掴んだ……お前は笑っていた。
はっと僕は気が付いて、前を見た。
彼女が、いた。
お前はあの人を想って笑っているのか、と納得した。
ならばこの手で掴むことが出来なくて当然だ、と納得した。

 彼女は何故か酷く切なげにこちらを見ていた。
僕がお前の隣にいるからだろう。
彼女に声を掛けようとして、口を開いた。
「違うよ」
違うよ、僕はこいつの……途端に空しくなった。
わざわざ言わなくても、彼女には分かりきっているはずだ。
ただの友達。
友達?そんな確かなものなのかすら分からない。

 彼女は俯き、首を横に振った。
「違うの」
そう、口が動いた気がした。
「何が」
と訊きかけた時、目が開いた。

 ぼんやりと、コタツの上のみかんが目に入った。
夢、だった。
腕枕をして痺れた腕を見てみると、うっすらと濡れていた。
そこで初めて、自分が泣いていることに気が付いた。















「お前なら、どうする?
好きな相手には既に恋人がいる。
どう考えても勝ち目なんて無い。そんな状況に陥ったら。
――……って、そんな思いをしたことないか……」

 端正な白い顔を見ながら、段々馬鹿馬鹿しくなってきて、せつらは力なく笑った。
大体、その相手が相談しているメフィスト本人のことなのだから、情けないにも程がある。

「……それが、今、君の陥っている状況なのかね?」

「ツッコミどころはそこかい」

「いや、……成る程」

「何を納得するんだよ、そこで」

「君の今までの言動が全て解けたのでな」

「あっそう」

 せつらは半ば自棄になって紅茶を一気に飲み干した。
冷めた紅茶は、砂糖が底に溜まり、最後だけが妙に甘かった。

「夢を見ると言っていたが?」

「もういいよ、何かお前に話していたら、どうでも良くなってきた」

 これ程空しい状況があるだろうか。
どう助言をされても、その助言を実行に移す相手は、
その助言をしてくれた本人なのだ。





「帰る」

 せつらは立ち上がり、伸びをした。
店をバイトに任せてきたままだ。多忙に悲鳴を上げているかもしれない。

「じゃ、また来るよ」

 そう告げられるだけで、今は十分だ。

「待ちたまえ」

 手を上げてコートを翻したところを、肩に繊手が置かれ止められた。

「なに……」

 せつらが軽く振り返った瞬間……――






 一瞬の熱の交換






「――『恋』という感情をオブラートに包まないことだ」

 ……意外な程柔らかな唇が、そう告げた。
瑞々しい桃を思い起こさせる……。
多分、唇で優しく食めば、驚くほど甘い――

「痛みも苦しみも、全てを受け止めたまえ」

「何を……分かった風に……」

 視線を、唇から外すことが出来ない。
今、何を、した?
柔かな唇……?何故それを知って……。

「呪いだ」

 細く長い指がせつらの唇をなぞった。
冷たさが、口付けの感触を奪っていく。

「まじない……?」

「ああ。よく効く」

 メフィストは穏やかに笑った。
まるで、先程の一瞬は永遠に無かったかのように。
その笑顔は、夢の中のものと、重なった。

「……メフィスト?」

 時が止まる。
また、思考が混乱し始める。
口付けは呪いで、
呪いは効果を発揮する。
効果を、発揮する?
けれど、それは……――















「そんな感情なら、僕は『恋』なんて、したくなかった」













切実過ぎる程、哀しい程、それが真実だった。



















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いずみ遊  2003年1月11日





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