口付けを交わす時は…… *いずみ遊*










 甘い香りとともに、唇が離れていった。
そっと、優雅に、人を癒す繊手が黒いコートの上から、
愛しい者の太腿を撫でる。
赤子を慈しむ様に――……あるいは、実験材料を扱う様に。

 私立メフィスト病院、院長室。
招かれざる者は、容易に入ることのできないその部屋で
せんべい屋にして新宿一の人捜し屋である秋せつらは、
そっと吐息を吐いた。
大きな机に半分以上の体重を預け、その机の持ち主
――ドクター・メフィストの口付けを受け止める。
吐息は、そのやり取りの過程で、快楽が生み出したものだった。
世界一の美女も斯くは、と思わせる程の美しい顔を歪めて、
せつらはメフィストの与える愛撫に耐えていた。

「ふっ……」

 際どいラインをなぞられ、思わず声が漏れる。
せつらの腕が、メフィストの純白のケープを掴もうと上げられた時、
メフィストは手を離し、すっと身体を引いた。
せつらは驚いて、メフィストを見やる。
メフィストの瞳はほんの一瞬、押さえ切れない欲情の色を見せたが、
次の瞬間、見る者に静謐を与えるいつもの<魔界医師>のものへと
戻っていた。

「何かね?」

 未だに、濡れ光る唇が、憮然とした声で問う。
せつらは漸くメフィストから目を逸らした。
――何故やめるのかなど、口が裂けても言えない。
これが、恋人同士ならば別だ。
素直に問えば良い。
けれど、自分達の関係はそんな生易しい関係ではない。
根底にある概念が違う。

 ――口付けは何度か交わした。
無論、同意の上である、とせつらは思っている。
何故、と問われれば、「違和感が無かったし、気持ちいいから」
と答えるしかない。
メフィストはキスが上手い。
彼の吐息の甘さにも理由がある様に思えるが、
<魔界医師>は何でも出来るのか、と少し可笑しくなった程である。


「何でもないよ」

 せつらは袖で軽く唇を拭った。
また鼻の先で甘い香りがした。





 暫くせつらは院長室に留まったが、
メフィストが机に向かったのを機に、部屋を後にした。
何を確かめているのか、とせつらはちょっと自虐的に笑った。
キスを止めた、あるいは、その先の行為全てを中止した理由が、
『急患が入った』とか『手術の時間だ』なら、何が変わると言うのか……。









 せつらは店に帰ると、バイトに『今日は終わりでいいよ』と告げた。
いつもより、早い閉店にバイトの女の子が不思議な顔をしたが、
せつらはそれ以上の説明はせず、奥の部屋へと入った。

 緑茶を入れ、畳の上に座る。
お茶請けは勿論、せんべい。
けれど、全然落ち着かなかった。
ざらめを一枚半食べた。
それ以上食べる気にはならず、半分以上残ったお茶とともに捨てる。

 そのまま畳に横になる。
こちこちと、やけに時計の音が耳につく。
バイトはもう帰ったのだろうか。
シャッターを閉めなければいけない。
思うだけで、身体は動こうとしない。
糸を伸ばし、シャッターを下ろす。
人がいれば、ちょっと不気味に思うかもしれないが、
自動シャッターとでも解釈するだろう。


 何もする気がしない。
もう、指すら動かす気力がなかった。
と、古風な黒電話がジリリ……と鳴り出した。
鳴るにまかせる。
糸を使って、電話機ごと側に持ってくることも出来たが、
それすら億劫だった。
何度か恨めしげに音を立てた後、電話は切れた。
メフィストだったのかも知れない。
ふと、そう思った。

 すると、今度は携帯電話が鳴り出した。
まだ、服のポケットの中に仕舞っていたのだ。
今度はきちんととる。
果たして、メフィストからの電話だった。


「メフィストと言うものだ」

「……知ってる」

 先程まで直に吹き込まれていた声に、背筋に痺れが走る。
余熱が抜けきっていないのだ。

「家ではないのかね?」

「……そう……」

「不精だな。仕事の依頼だったらどうするつもりだったのかね」

「……」

 低く嗤われ、身体が熱くなる。
そんな、せつらに、メフィストは気づかない。

「まぁ、こっちが繋がるのならば良いのだろうが。
ああ、用件だが……」

「……客が来たから後にしてくれ」


 いつもの「つれなさ」を装って言うと、
メフィストの返答も待たずに電話を切った。
ツーツーと、電話がメフィストの声を聞けなくなった悲しさを表した。







 暫く携帯を弄び、何を期待しているんだ、と気付いて畳の上を滑らせた。








 好きではない。
そう、思う。
メフィストが敵側に回れば、何時でも殺す気持ちはある。
それは今も変わらない。
顔を見て、胸が高鳴るなんて、ありえない。
会話をすれば、何時もと同じ。
何も変わってなどいないのだ。
なら、何故……?
何故、その先を期待しているのだ?
電話が再び鳴ることを。口付けの、その続きを……――






「藪医者」

 何が、主治医だ。
何故、僕が悩む必要がある。
面倒なことは全部、あいつに押し付けてしまえばいい。
こんなのはおかしい……――


 せつらの思考を遮断する様に、ドアがノックされる音が聞こえた。
視線だけを、ドアへ向けた。
もう一度、こんこん、と鳴る。
糸を伸ばさなくても分かる。
ただのドアだ。
けれど、あの男が叩けば、世界一美しい音色を奏でる
木琴並みの音を発するだろう。
彼が、ドクター・メフィストと呼ばれる限り。

 ドアが独りでに開いた。
鍵は掛けておいた筈だが、メフィストに見惚れたドアならやりかねない。
自分から進んで扉を開く。
メフィストの美を賞賛するものは、決して人間だけではないのだ。



「……客、ではなかったのかね」

抑揚の無い声。
それでも人間の一人や二人、感動で泣かせる位の美声である。

「今、来たところさ」

せつらは寝そべったまま、玄関に立つ、白い医師を見上げた。

「ほう。透明人間か何かか?」

 メフィストは、それ以上部屋には入って来なかった。
せつらは、先程投げ出した携帯電話を見つめる。

「これ、忘れ物だ。大事な商売道具ではないのかね」

 メフィストが茶色い紙袋をそっと、畳の上に置いた。
そうだ、今日はせんべいを掴む長い箸を買ったのだ。
そして、その帰りにメフィスト病院へ寄って……―

「……ああ、ありがとう」

「あまり、感謝されてはいないようだが」

「……暇なら上がっていけば?」

 メフィストは瞬間、驚きを表したが、すぐに微笑した。

「医者が暇とは、世も平和になったものだね」

「何言ってるんだ。
態々、忘れ物を届けに来る奴のどこが忙しいんだよ」

「成る程」

「成る程じゃないよ。茶は飲みたきゃ自分で入れてくれ」

「私は客ではなかったのかね」

「……だから、客は透明人間だろ?」

 思わず、メフィストは笑い声を漏らした。

「何が可笑しい」

 反対に、せつらは憮然とする。
喉がひりひりする。
身体の奥から上がってきそうになる快楽を只管押し込める為、
多大な努力を要するのだ。
機嫌も悪くなろうと言うものだ。

「すまない。折角のお誘いだが、私は帰るよ」

 予想外の言葉に、せつらは「え?」と声を上げ、身体を起こした。

「なんで?」

 メフィストは、せつらの携帯電話を見つめながら、苦笑した。

「帰って欲しくないような言い方だな。
……あまり期待させないでくれたまえ」

「……!」








 ――……その一言で、その表情でせつらは悟ってしまった。
メフィストと、自分の考えの差異を。







 せつらにとって、メフィストに口付けを許したことは、
何か一つ、メフィストの「想い」とやらに許しを与えたことに等しかった。
けれど、メフィストにとってはそうではなかったのだ。






『期待させないでくれ』と……――






 メフィストは、そう言ったのだ。
――憂いに、漆黒の瞳を揺らせて。

 それは、せつらが認めた行為を、それに伴う感情を
そうではない、と
春の新芽に注ぐ日差しの様に、柔らかく否定していた。

 それならば、理解が出来る。
電話も、口付けの続きもない。
会話は何時も通りで、相手に胸の高鳴りを感じることもない。
その理由が……。

 月。
彼は月だ。
真摯な想いを、激しい劣情を、柔らかに反射させて、
淡く、それでいて眩い程に届けてくる。
――それは、口付けの時だけ。
その熱を感じ取り存在を確かめるのではなく、
その光に気付き、ふと視線を上げなければ在ることすら分からない月。

 気付いてくれ、と。
彼はそう、光を届けていた。
愛しげにキスをしながら、中途で止め、
行為ではなく、気持ちが欲しいのだ、と。
それが駄目ならば、今までの関係でいい。
自分が多くを求めているならば、今まで通り、接しよう。
だから、メフィストは引き返せる範囲のことしかしなかった。
会話も電話も何時も通り。
せつらが違和感を感じる様なことは、言わない。

 幾ら口付けを交わしても、せつらがその光を受け取り、
同等の光を返さなければメフィストは憂いの表情を見せるだろう。
そして自分の付けた目印を頼りに、『ただの友人』へと引き返すだろう。






 ――全てを、せつらは悟ってしまった。 







「メフィスト……」

 なるべく穏やかな表情を作る。
本当は、今にも泣き出しそうな位、
締め付けられる様な想いに囚われていたけれど。

「何かね?」

 さらり、と長い絹の様な髪が、揺れる。
少し、細められる目。
何時ものドクター・メフィストだった。
悲しいほどに。

「キス……――」

 手を伸ばし、せつらは月を掴まえる。
ケープがひらりと舞い、メフィストが身体を屈める。
漆黒の絹が、せつらの頬を撫ぜた。
愛しげに繊手がせつらの顎を捉え
唇が……触れ合う。
瞳を開いたまま、互いの奥底まで暴く。
気付けばいい、と同時に思っていただろう。





――この想いに気付けばいい。
――その想いを知っていることに気付けばいい。











――口付けを交わす時は、正直に――












いずみ遊 2002年4月9日



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