夢恋人 *いずみ遊*
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寝不足だ。
煎餅を並べたショーケースにせつらは頬を寄せた。
冷たさによって少しは眠気もなくなるかと思いきや、
そのまま夢の世界に旅立ちそうになって、慌てて身体を起こす。
「店長、大丈夫ですか?」
バイトが心配そうに、せつらの方(あくまでも、方であり、彼を実際に
見つめているわけではない)を見て、声を掛けるほどだった。
「ああ……多分」
普段にもまして覇気の無い返答に「あと1時間で店仕舞いですから、
頑張ってください」と頑張る対象が全く分からぬ応援をされ、
せつらは欠伸を噛み殺した。
毎夜、出てくるのは大抵、黒猫。
しなやかな肢体で、せつらの夢の中を優雅に歩き回る。
夢に獣が出るのは懐胎の兆し――止めてくれよ、とせつらは思う。
男と女が実事に至れば、命が生まれるのはこの世の理。
ただ、……ただ……。
「<魔界医師>の子供なんて、ああ、恐ろしい」
思わず呟いてしまって、バイトから冷たい視線を受ける。
「店長……寝言は寝てから言ってくださいよ」
全く、その通りだ。
「何故、自分の家で寝ないのかね?」
背筋を正したくなる様な声で医師が至極まともな質問をした。
勿論、メフィスト病院院長室。
せつらは紅茶を一口、口にしてから眠気を追い払うように頭を数回振った。
「眠りたくないんだよ」
医者は――メフィストは奇妙な顔をして、せつらの横に腰掛けた。
「……っていうか、なんで隣に座るの?
前からずっと気になってたんだけど」
せつらは自分の正面にあるソファーを指しながら訊いた。
普通ならば、こういう場合、互いに向かい合う形で座るだろう。
この医者に普通、という言葉を当てはめるかどうかは別問題とすれば、
それが自然な流れである。
……第一、せつらの心臓に悪い。
「何か隣に座ることで不都合なことが生まれるかな?」
「……喋りにくい」
紅茶と共に出されたバームクーヘンをフォークで一口大に切って口に運ぶ。
もし、このバームクーヘンが、円の形のまま出てきていたら、
せつらはきっと目を回していただろう、と思う。
睡眠不足は三半規管に多大な影響を及ぼす。
「成る程。私はこちらの方が喋り易いのだがね。
……真正面で向かい合うと、どうも患者と話している気分になってくる」
「そりゃ、職業病だね」
きっぱりと切り捨てる。
しかし、メフィストに場所を移動するような気配はない。
かと言って、ここでせつらが移動するのも何か釈然としない。
結局、何時もの通り、二人並んで会話することになる。
――何処までも、惰性で続いている関係なのだ。
「ところで、寝不足なのにも関らず、寝たくないとはどういうことかね」
二杯目の紅茶を注いで、メフィストは思い出した様に口を開いた。
せつらは、一瞬何のことかとメフィストの方へ顔を向けかけ、
ああ、と頷いた。
「いや……あまり心臓に良い夢を見ないもので」
「君にとって心臓に悪い夢とは、どんなものかね」
畳み掛けるように問いかけられ、せつらは答えを考えあぐね、
一切の思考を放棄するように、背もたれに体重を預けた。
大体、何と答えれば良いのだろう。
黒猫が出てくる、それが夢の共通項。
後は……死んでも言えない。
墓場に持っていくべき内容だ。
精神分析者に尋ねてみれば、きっとそれは「大抵の人間が見る」
と太鼓判を押してくれるような夢だけれど、
それにしたって、登場人物が登場人物だ。
誰に相談出来よう。
メフィストがせつらの知り合いであり、しかも<新宿>あるいは世界一の
名医であっても、彼が知り合いであり、<魔界医師>である為に、
何があろうと相談などしてはいけない人間の筆頭に上げられるのだ。
ああ、こんなところ、やっぱり来るんじゃなかった。
否が応にも意識してしまうではないか。
夢を見ないで済む薬を調合してもらおうと思っていたのに、
これでは、薬を飲んでも夢を見そうだ。
でも。
でも……。
はっ、と急に覚醒した。
「大丈夫かね?」
「……?」
覗き込む顔。
「……!…………?!………………!!!」
声にならない悲鳴を上げ、せつらは飛び退いた。
急に見る医師の顔はそれが至近距離だったことも手伝って
せつらの脳細胞を混乱の渦に巻き込んだ。
「わっ……悪い……!」
何を謝るのか分からなかったけれど、それだけは言葉にして。
「え、……あの……」
せつらは何とか状況を整理しようとメフィストの顔を見つめた。
しかし、それはこの場合逆効果だったと言えよう。
せつらは自分でも顔が赤くなるのが分かった。
どう状況を整理しようと、せつらの頭が出してくる説明は一つ。
“知らない間にメフィストの肩で眠っていた”
一人で赤くなったり青くなったりするせつらを見て、
メフィストはふと微笑むと、せつらの頬に右手を添えた。
ひんやりと冷たい手。
けれど、その瞳は優しくせつらを映す。
幾多もの患者を安心させてきた眼差し。
――それより、少しだけ甘いと感じるのは、自分の欲だろうか。
「直ぐ、夢を見なくなる薬を調合しよう。
余程心臓に悪い夢らしい」
メフィストは良い様に解釈したらしい。
せつらは漸く胸を撫で下ろし、冷めてしまった紅茶を嚥下した。
――……!
「……あのさぁ」
立ち上がり、簡易の実験室を兼ねた院長室の一角へと向かおうとするメフィストを
せつらは呼び止めた。
「黒いものだけを取り除く様な薬って作れる?」
悪夢、という訳じゃない。
ただの自己嫌悪なんだ。
せつらは貰った小瓶を見ながら、呟く。
琥珀色をした瓶にはなみなみと液体が詰められている。
「夢とは、脳が情報整理の最中に浮かんだ断片を
流しているものだから、全てをコントロールすることは難しい」
メフィストはそれを渡しながらそう、言った。
「だから、この薬を飲む前に、『見たい』と思うもの、『見たくない』と
思うものを強くイメージしてから飲みたまえ。
100%とはいかないまでも、効果はあるだろう」
『見たい』と思うもの。
記憶の何処かに埋め込まれている、もの。
せつらは、小指の先程しかない瓶の蓋を、丁寧に開けた。
――必要以上に意識してしまうとしても、しょうがないじゃないか。
開き直っている訳ではない。
ただ、真実、そうだと自分に言い聞かせているのだ。
――仮令、逢えばまた夢をみて、寝不足になると分かっていても、
それでも、逢いたかったのだ。
夢恋人。
そう、夢の中だと分かっていても、
自己嫌悪に繋がるとしても、
逢いたい、
それが心からの気持ち。
その晩、黒猫は一度も姿を現さなかった。
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いずみ遊 2002年12月6日
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