寄せては返す、波の音を *いずみ遊*
*お題配布サイトFar side of the moonさんより
『海に沈む10のお題』を使わせていただいています









 素足の指の間を粒子を含んだ液体がくすぐり、目を開いた。
規則的に寄せては返すそれは、波だ。
視線を横に向けると砂浜が広がっていた。
流木やペットボトル、見慣れぬ文字が書かれたドラム缶。
自分はいつからここにいて、今はいつなのだろうか。

 ぼんやりと考えていると、ひときわ大きな波音がして腰まで浸かってしまった。
このままでは頭まで波をかぶってしまうと上半身を起こして、髪につきまとう砂を振り落とす。
背中も腰も砂だらけだ。
何故自分は全裸で砂浜に寝転んでいるのだろうと最初に考えるべきことに気付いた時
傍らに人の気配を感じた。
見上げた先には漆黒の夜空と、月――



***



 メフィストは初めてせつらに抱かれた日のことをよく覚えていない。
その事があったと思われる翌日、「人には忘れられる権利がある」と告げたせつらが、
彼のベッドで、もちろん彼の隣で寝ていたことだけを覚えている。
それから今日に至るまでにせつらがメフィストに課した決まりは大量で
どれも「守れない場合には、即刻、息の根を止める」と強烈な枕詞つきであるが
メフィストは甘んじて受け入れている、ふりをしている。
せつらに殺されるような男ではないし、せつらも殺しはしない。

 メフィストが思い出を回想していると、目の前で背を向けていた男がこちらへ寝返りを打った。
午前七時。本業の仕込みはまだだろうか。起こした方が良いのか逡巡していると唇が動いた。
「見るな」
 掠れた声で男――秋せつらが目も開けずに凄む。
「後頭部くらい見させてくれても減りはせぬと思うが」
「減る」
 顎をいきなり掴まれ引き寄せられる。
メフィストが両手をベッドについて体勢を整えるか否かの時には唇に噛みつかれていた。
仕方なく口を開けると、入ってきたせつらの熱い舌に思う存分蹂躙される。

 朝の機嫌の悪さは病気ではないのでメフィストも治しようがない。
大体、寝不足はせつら自身の所為なのだ。
ありもしない浮気を疑いやって来て、そのままメフィストを床に押し倒し、数時間。
メフィストが解放されたのは、午前三時を回った頃だ。

「見られると気になる。気になると目が覚める。おまえは僕の睡眠時間を減らしている」
「……」
「何か?」
「回診に行ってくる」
 言っていることを理解できない場合、朝はとにかく逃げた方がいい。
無防備な寝姿を見るのは好きだが、いつも引き際を間違える。
「秋さんが来た日は、院長は朝の会議に遅れる」とすでに看護師の間で噂になっているのだ
(と、看護師長が忠告してくれた)。
やれやれと床に落ちたケープを拾い上げるため腰を屈める。背後でせつらが起き上がる気配がする。

「回診に」
「抱かせろ」
「回診」
「僕が夜だと言えば、おまえの世界は夜だ」
――無茶苦茶だ。
「ならば」
「なんだよ」
 否定の言葉を想定して次の言葉に身構えるせつらに、メフィストは美しく微笑んだ。



***



 その前日。
太陽が地平線の向こう側へと消え、店先に掲げられた「OPEN」の札が「CLOSED」へと変えられた
午後七時。
店先のゴミを簡単に箒で掃き、切り花が入ったバケツを中へ仕舞おうと腰を屈めた時。
「あら、秋さん」
 店員の声に顔を上げると、そこには同じ姓を持つ従兄弟が立っていた。
「もう閉店ですけど、何か御用かしら?」
 何故か色目を使い出す店員には目もくれず、従兄弟はこちらへ向かってくる。
怒っているようにも見えるが、そんな機微が分かるほど従兄弟の顔に興味はないので、
普段通りなのかもしれない。
そういえば、最近の従兄弟殿は纏う雰囲気が変わった、と秋せつらマップなるものを片手に
やってきた観光客の一人に言われた。

 秋せつらマップ。

 いかにもあの区長が考えそうなものだ。
図らずも従兄弟を無視した形になり、気が付いた時には目の前に従兄弟の顔があった。
雰囲気の違いは分からないが、現在の機嫌が最悪なのは分かった。

「預かっているでしょ。出して」
「誰が誰から何を?」
「おまえがあいつから男を」
 天を仰ぐ。まさか本当に来るとは思わなかった。
「ご執心だな」
「誰が何に」
「おまえが、あの藪医者に」
「逆でしょ」
 手早く切り花と輪ゴムで作った花束を胸に押し当ててやると、従兄弟はそれを受け取った。
花屋が出せるのは花だけだ。人を出せと言われても困る。
「仮にも血の繋がった親族だから言うが、浮気くらい許してやれ。
 適度に手綱を緩めてやらないと死ぬぞ」
「僕がいるのに他の何に興味を惹かれると?」
「患者だろ」
 従兄弟は手にしたブーケを見る。黄色いバラ。
今夏の流行色は黄色です。売れます!と力説する店員に反論するのも煩わしく、仕入れた品だ。
お蔭で売れ残っている。

*

 階下で人の気配がする。
また寝てしまっていたらしい。遮光カーテンが引かれた上、時計もないため時間は分からない。
だが今回は何故ここにいるのかだけは分かっている。
体を動かしてシーツの冷たい部分を探す。頬を付けると熱の交換が始まる。気持ちよい。
と、瞬間、右手首に締め付けられるような激痛を感じて慌てて起き上がる。
千切れたかと思ったが、手はいつも通り腕についており、ほっと胸を撫で下ろす。

「人の家に勝手に上がるな」
 先程まで遠くで聞こえていた声が、扉のすぐ外でした。
振り返ると、扉を開けた死神と目が合った。
廊下の方が明るいので、向こうがこちらを把握できるとは思えなかったが、
「見られている」ことを確信できた。
何故か右手にバラの花束を持っている。

「……なるほどね」
 良家のお坊ちゃま風なのに、醸し出す雰囲気は鋭く、そのアンビバレンスさが
見る者を引き付けて離さない。
と、こちらが観察しているように向こうからもじっとりと値踏みをされているようだ。
その視線だけで焦げてしまいそうになる。
死神の背後にはこの家の主がいて、こちらと死神とを交互に見ていた。
その顔には数時間前に出会った時からずっと、無機質な
しかし不思議と違和感を与えない仮面がつけられている。
花屋を営んでいるというのに、驚くほど美しい指をしていた。
秋ふゆはると名乗ったか。

「患者、だろ?」
「さっきは浮気だと?」
「言葉の綾だ。気にするな」
 二人の間で理解できない会話が交わされ、また急速に眠気が襲ってく……――



***



 せつらとこのような関係になったきっかけは覚えていないので分からないし
何故、彼がメフィストの想いに応える気になったのかを問うても教えてはくれない。
 決定的なことがあったと思しき日を境に、せつらからの対応に大きな変化はもちろん、なかった。
秋せつらという人間がメフィストの想いを受け入れた
――あまつさえ、愛だの恋だのという感情を抱いている――わけではなく
メフィストを丸ごと彼の内に取り込んでしまった、というのがメフィストの感覚であった。
 いつでも挑むように抱いてくる。こちらから寄ろうとすれば離れていく。
だが、メフィストが他へ興味をそそられていると知ると、一気に距離を詰め、掴まれる。
<新宿一>の人捜し屋に対してこちらは分が悪い。

「何度言えば分かる」
 突然耳元で囁かれ、首に幾重にも巻かれる不可視の糸。
針金を繰ろうとする指も制され、乱暴に床にうつ伏せで組み敷かれる。その間、一秒にも満たない。
君は殺し屋か、と問おうとしたが、まともに声が出ないので止めた。
「あれは誰だ」
 当病院では瞬殺だろうと思われ、隠れ蓑としてせつらの従兄弟宅に預けたものを
難なく見つけ出してきたと知れた。
怒るくらいなら、知らぬ存ぜぬを突き通せば良さそうなものを、職業病なのか
せつらはその全てを一つ残らず見つけてきた。

 息がようやく出来るかどうかまで絞められた糸がせつらの振動を伝えてくる。
背に馬乗りになったせつらを見ることは出来ないが、笑ってはいないことは分かる。
かといって、鬼の形相で怒っているということもない。
ただ、自分の右手が意思に反して動いたことが不思議でならないというような風に追い詰めてくる。

「てがみ」
「手紙?」
「あれは、てがみ」
「人間にしか見えない」
「かみでも、でーたでも、やりとりできない、じょうほうが、ある」
 くるりと身体をひっくり返される。
真偽を問うようにじっと見つめてくる瞳を見返していると、しばらくしてようやく糸が緩んだ。
改めて突然の訪問してきたせつらを見ると何故か左手に黄色いバラの花束を持っている。
従兄弟からもらったのだろうか。

「ふーん。納得はしないけど、許せなくはない。花屋に預けるのも悪くない」
「せ……!」
「ん?」
 せつらの両足は靴のままメフィストの両手首を床に押し付けていて
メフィストは十字架に磔にされたような恰好だ。
せつらが強めに手首を踏むと同時に緩めていた糸を締めると
メフィストの喉元がわずかにせつらの方へ差し出される形となった。
「気持ちいい?」
 問うて首を傾げるせつらはうっすらと笑みを浮かべる。
第何条目かの決まりで反撃を禁じられているメフィストは、軽く開いた唇から浅い息を繰り返す。
「真性のマゾヒスト?こういうお仕置きを期待しているんじゃないの?」
「あ……」
「あ?」
「あい、している、」
「……知ってる」

*

 次に目覚めた時には再び砂浜の上だった。
世にも美しい白い影に大切な何かを伝えたのが、夢か現か。身体が重くて一ミリも動かしたくない。
 ざざん、ざざん、という波の音がすぐそこまで来ている。
自分はまた、取り込まれてしまうのだろうか。
この巨大な海に。地球に。
 ひどく眠い。思考が溶け出し、海水と同化していく。
自分はいつ、どこから、何故生まれたのか。
「そんなことは誰も知らぬ」
 傍らに立っていた白い影は、溺れる私を置いてどこかへ去って行く。
「せんせい、あなたは」
 叫んで吐き出した分だけ海水を飲み込む。苦しみよりも眠気が勝る……しろい、ひかりが広がる。
――せんせい、あなたは、わたし、ですね……――



***



「僕が夜だと言えば、おまえの世界は夜だ」
「ならば」
「なんだよ」
否定の言葉を想定して次の言葉に身構えるせつらに、メフィストは美しく微笑んだ。
「私が君を愛しているのならば、君も私を愛しているということになる」
「……は?」
 次の句を告げるまでにあった間は、短くも浅くもない付き合いのこの医師の笑みに見惚れた故では
断じてなく、予想外の言葉に驚愕したためだ。
「自明のことだが君は理解していないようなので、つい教えたくなった」
 せつらは目を見開いて、次の瞬間には自分の尻で踏んでいた掛布団をメフィストの頭上へと落とした。
「あの男、誰だ!」
「ん?」

 メフィストが白い迷路からゆっくりと脱出した時には、せつらはすでにスラックスを履き
シャツのボタンを留め終えるところであった。
「知っていたのかと思った。従兄弟の家で会ったのだろう?」
「知らない。美人でもなかった」
「私のことを美人と認識していると考えてよいのかね?」
「……一般論。メフィスト、上着」
 目を合わさず差し出してくる手を、メフィストは恭しく取って口付けた。

 初めての夜の記憶はまるでそこだけ誰かに切り取られたように皆無だった。
メフィストはそれが文字通り、せつらによって「切り取られた」ということを
何とはなしに理解していた。
無くても困らなかったのでそのまま気に掛けずにいたのだが、
ある日、それが実体の「男」となって<新宿>のありえない海へと姿を現した。
 「男」はメフィストに伝える言葉以外を持たず、その意味では「手紙」という
メフィストの表現は間違いではなかった。
誰でもない「男」から淡々と語られるその日の出来事を、メフィストは口も挟まずに、聞いた。

「不要になったものを海に捨ててはならないという教訓を今回学べただけでも
 よしとすることだな、秋くん」
 手の甲に口付けを受けながら、せつらはその手を振り払おうとはしなかった。
「……今すぐ忘れろ」
「無駄なことを」
「メフィスト!」
 強い口調も、
「せつら」
 熱を帯びた真摯な言葉に、色を無くす。
「何度忘れようとも、私が変わることなどありえないよ」
 メフィストが強く手を引くと、せつらは自然の摂理に従ってメフィストの腕の中に納まった。

 あの日。メフィストの全てを搾取することでしか続けられぬと思った。
限界はとうに超えていた。
新宿の覇者である「秋せつら」が他人の想いを受け入れることなど到底できない、
だがしかし、抗うことももはやできなくなっていた。
 だから、戯れのように近いてきたその唇を殴るように奪った。
奪い続け、無くしていけば、自分の心の平穏もその分早く訪れると信じて疑わなかった。
 他でもないせつらからの口付けに驚いたメフィストの記憶に
切り取り線の最初の一点を入れるのは容易だった。
メフィスト病院院長室という密室で、目の前の男の記憶さえ奪えば自分よりほかに
これから起こる事を知りうるものなどいない。
 こうしてただ一夜だけ、せつらはメフィストの想いを受け入れることを自分に許可した。
どうせ後で切り取る記憶だ。組み敷かれて額に汗を浮かべたメフィストの耳に唇を寄せ、
「好きだ」と囁いた。
たったそれだけのことを、せつらは今までずっと自分自身に禁じてきたのだ。
もう二度とせつらが口にすることのない言葉と知ってか知らずか
メフィストは穏やかな表情で一つ頷いた。

「人間の寿命などたかだか百年だよ、せつら」
「おまえが言うな。怖い」
「たとえ君が私から必死に何を奪い続けようとも、百年でなくなることはないと、そう言っている」
 メフィストの腕に抱かれたせつらは、小さく溜息をついて体重をメフィストに預けた。
 耳に頬に、直に感じるのは、遙か太古から変わらぬ音。
月に引き寄せられ、風に煽られ、絶えずそれは聞こえてくる。
彼の胸からも、自分の胸からも。

「藪医者」
「甘んじて受け入れよう」
「藪」
「せつら」
「おまえのその愛情表現の複雑さを何とかしろ」
「……お互い様ではないかね?」

 せつらは瞳を閉じて、聞いた。
     ――寄せては返す、波の音を。









2014年08月16日発行 『SEESAW GAME』収録
2017年09月24日加筆修正


陸さんが2014年夏コミにて発行された御本に掲載いただいた小説となります。
誤字脱字や横書きへの変更にともなう改行の追加などを行いました。

いずみ遊
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