静寂が支配する院長室。 彼は腰まで流れる黒髪を揺らし椅子から立ち上がった。 白いケープが、優美に幾重もの流れを作る。 神に愛された男、そして神に憎まれた男の姿が、それであった。 何処を切り取ってみてもそれは完璧すぎる形でそこへ収まっている。 それ以上のものを人の脳は考えられないだろう。 触れられたいと誰もが願う指がブラインドを軽く開いた。 窓の外に広がるのは、新宿。 危険地帯、歌舞伎町。 どんよりと曇った空が眩すぎる街の光を反射し、夜だというのに明るかった。 彼は暫くの間、見るともなしに外を眺めていたが、飽きたのか 背を向け、また机に向かった。 インク壷を開け、ペン先を浸す。 さらりと何気なく動かす手から、弘法ですら筆を折りそうな達筆が 生み出されていく。 それが、ただのカルテだとは、誰も思うまい。 絶世の美女へ宛てた恋文だと言っても信じられるかどうか。 まず、彼を越える美を、人は想像できないだろうから。 秋の夜は日に日に長さを増す。 彼は一度休憩を挟んだ後はカルテを書き続け、 それが83枚目となった時、何かに気付いたように顔を上げた。 既に日は変わっていた。 「何故、入ってこないのかね」 永遠に続くかと思われた静寂を破ったのは、やはり彼だった。 彼は視線をドアの方へ向けた。 「別に、お邪魔かしらと思って」 重厚なドアが開いたとは見えず、しかし女は部屋の中にいた。 生きて入れるものは数限られると言われる、この院長室へ。 「君がその様な遠慮をするとは思えないがね」 ペンをペン立てに置き、彼はカルテを紐で閉じた。 「ご挨拶ね、メフィスト。弟子同士にも礼儀は必要でしょう?」 女は座ってもいいかしら、とソファーに腰掛けた。 あらゆる動作から匂い立つような色気を出す女だった。 「その問いを君がすることになるとはな」 女は妖艶に笑い、コーヒーを所望した。 彼は女を一瞥してから、コーヒーカップを二つ手に取った。 「あら、貴方が淹れてくれるの?」 「看護師にあらぬ疑いを持たれたくないのでな」 「私は大いに結構よ」 「そういう意味でない」 彼は漸く笑った。 ――そして、それは見るものが見れば卒倒しそうな事態であった。 女も、思わず彼の背を凝視した。 彼が女の前でこの様に笑ったことなどただの一度も無かったのだ。 「なら、どういう意味よ」 「部下を働かせておいて、私一人楽しんでいるとは思われたくないという意味だ」 ポットからお湯を出す音が数度して、部屋に濃いコーヒーの香りが広がった。 どうやら、インスタントではないらしい。 「貴方、本当に経営者向きの性格なのね。損な人生」 女は黒いコートを脱ぎ、ソファーの背に掛けた。 ぴったりと女の躯のラインをなぞる服も、この女だからこそ着られる服だった。 際どい長さのスカートから驚くほど白い脚が伸びている。 「君ほどではないよ、シビウ」 彼は右手に持ったカップを女の方へ差し出した。 それを受け取らず、女はテーブルを挟んで真正面にいる弟弟子を見上げた。 あまりの美しさに、光り輝いて見える彼の顔を、 こんな瞳で見つめるのは、恐らくこの女だけだ。 彼はカップをテーブルに置き、ソファーに腰掛けた。 宝石でも埋め込んだかと思われる瞳が、未だ彼を見つめ続ける。 「貴方を殺すのは、私の役目だと思っていたわ」 暫くして、女は口を開いた。 ワントーン落とされた声。 女は漸く視線をカップへ落とす。 軽く伏せられる睫毛に、一体どれ程の男が狂っただろう。 「それは君の勝手な妄想に過ぎぬ」 「そうかしら。貴方もそう思っていたはずよ。 少なくとも、あの男に逢うまでは」 コーヒーの湯気がゆらゆらと二人の間を立ち上る。 世にも華美な彫刻の様に動かない二人。 それを現実のものたらしめているものがこの湯気であった。 「貴方は矛盾した男なのよ」 「初めて言われた」 「そうかしら。昔から私はそう思ってたわよ」 この二人の言う、昔とは一体どれ程時を遡るのだろう。 「自ら死を拒絶しながら、一方で死を誰よりも望んでいる。 貴方が哀れで仕方なかったわ……今も、昔も」 彼は軽く頭を横に振った。さらりと髪が肩から流れる。 「哀れ?」 「ええ。 自分の矛盾を、貴方はどうにも出来ない。 ……貴方は私を愛する同じ心で私を憎んでいた」 女は立ち上がり、彼の隣へ移動した。 その後を濃厚なバラの香りが追う。 「そうでしょう?」 蠱惑的な唇が彼の耳元に近付いた。 それが触れ合う寸前に、彼は突然身を翻し、女の両肩を掴むと そのままソファーに押し付けた。 ふわりと、女の髪が舞う。 「乱暴ね」 「何をしにきた」 「別に、ただ、弟子同士のし……」 「せつらに逢ったのであろう?」 間髪入れずの問いに、女は苦笑した。 「何もしてないわよ。遠くから眺めただけ」 深海の色を湛えた瞳が、女をしっかりと射抜いていた。 「それとも、言った方が良かったかしら。 『あの男は昔、私の物だったのよ』って」 女の唇が艶やかに笑みを浮かべた。 ――その口を封印するかのごとく、もう一つの唇が重なった。 女は一瞬、驚いたように目を見開く。 けれど、静かに腕を彼の背へ回すと瞳を閉じた。 表面上は穏やかに。 けれど、ゆったりと角度を変えながら、深く深く交わる。 男と女である限り、それは背徳的な行為とは言えなかったが、 しかし、一種の妖しい欲望を見る者に植えつけるような口付けだった。 やがて唇同士が離れた時、 透明な糸が一本名残惜しげに二人を繋いでいた。 もう一度口付けることでその糸を切って、彼はやや眉を顰めた。 「口紅の味は何時まで経っても慣れないな」 それは酷く官能的な科白であった。 女は彼の濡れた唇に人差し指を当て、憂いを帯びた瞳で彼を見上げた。 「酷い男。怒っているなら、普通に怒ればいいのに」 「君が言ったのだよ、矛盾した男だ、と」 彼は乱れた女の髪を手櫛で梳いてやりながら、囁いた。 女は溜息をついた。 「帰るわ」 きっぱり言い放って、女は立ち上がった。 彼は女のコートを取るとばさりと広げ、女の腕を通してやった。 「愛してるの?」 「あぁ」 「そう」 女は彼を振り返らずに、扉へ手を掛けた。 「また来るわ」 「そうかね」 冷ややかな声がその背に掛かる。 肩を竦め、女は扉を閉じた。 閉じゆく扉の細くなった隙間から独白のような彼の声が流れてきた。 「確かに、君にならば殺されても構わないと思った日々があったよ」 本来音がする筈の無い扉が、確かに、ガチャンと鈍い音を立てて閉まったのを 女は聞いた。 「ホント、酷い男……」 何処までも誠実に愛を与えようとするから、 一度、嵌れば抜け出せない。 仮令、貴方の心が別のところへいってしまっていても、 今は、憎まれていたとしても、 貴方が真摯に愛してくれた事実だけは永遠に変わらないから。 残酷な人。 だからこそ、忘れられない人。 女は、一度だけ分厚い扉を肩越しに見て、踵を返した。 そこには、延々と続く薄暗い廊下が続いていた。 一言BBS2400キリ。たらげさんより、「溜息が出るほどカッコ良いドクター」 でも、別れても好きでいられるっていうのは、ステキです。 ひょんなことから、ノーマルカプに萌えまして、このような作品になりました。 シビウ姉さん、好きです。 いずみ遊 2002年11月12日 *ブラウザを閉じてお戻り下さい* |