桜 *いずみ遊*












 今年も桜が咲いた。
桜を愛でる心は、<区外>でも、<区内>でも大差は無い。
改めて、そう感じると、何か奇妙な気もする。
大体、<区民>は今更空から槍が降ってこようと驚かないのだ。
それが、春になると「ひらひらと舞う薄い桃色の花びら」が
雪のごとく降ってくることを期待する。
おかしいではないか。<魔界都市>に桜だって?

 そう言うと、ドクター・メフィストは世界一美しい華の様に微笑んだ。
おそらく、その笑みを受けてまともに立っていられるのは、
秋せつらくらいなものである。

「せつら、それは些か問題点が飛躍している様に思えるが?」

 そうだろうか。

「確かに、<区民>は槍が降ってくるくらいでは驚かん。
しかし、槍が降ることなど誰も期待してはいまい」

 まぁ、と言葉を続ける。

「怪我人が出ても死人はでまいがね」

 ドクター・メフィストは再び紅い唇を三日月形に歪めた








 せんべいの配達ついでに、お茶でも、
とメフィスト病院に立ち寄った秋せつらは、
院長室に入るなり、眩暈を起こしそうになった。
そこには、樹齢100年は超えていそうな桜の大木が
訪問者の行く手を阻むように植えられていたのである。
「さくら餅でも食べたくなったのか?」とせつらは本気で問いかけた。
<魔界医師>の周囲で起こることにいちいち驚いていては
身が持たないが、こればっかりは、せつらですら驚いたのだ。

 しかし、当の、メフィストは至って、真面目。
曰く、「君と二人で桜が見たかったのでね」
数日後、<区外>で、桜の老木が一夜にして根こそぎ消滅したことが、
大きな話題となっても、この医者ならやりかねないとせつらは固く思った。








「けどさぁ、桜って何が良いんだろう。
確かに、奇麗だけど、所詮、宴会やる口実でしょ?」

 ひらひらと舞う花びらを片手で受け止めながら、
せつらは肩をすくめた。
メフィストは、いつも通り大きな机の前に座っているが、
手にはペンではなく湯のみをもっている。
勿論、秋せんべい店のせんべいを食べる為だ。

「私も、これを口実に君を引き止めているのだから、
その意見を無碍に却下はできぬが。
……散るのが良いのだろうな。やはり」

「ああ、汚くなる前に散るっての?
でも、散ったら踏まれて余計汚いような気がする」

「それはそうだが。……お茶が冷めるが?」

「ん、戴くよ」

 せつらは手を伸ばし、湯のみを取った。
そこに、ひらりと薄ピンクの断片が入り込んだ。

「今の花は汚れまい」

 それを見たメフィストが指摘すると、せつらが笑った。

「確かに。ここにある桜は汚れない」

 そこで、少し考えて、付け加える。

「お前が踏まない限りね」

「それは、君も同じだろう?」

 メフィストも笑いながら答える。
こと、と湯のみを机に置き、音も無く、
――いや、動く姿が天上の音楽ではあったが――
立ち上がると、桜の雨を受けているせつらに近寄った。

「本当はね、意地悪く考えると分かる気がするんだ」

 メフィストが純白のケープの中から手を差し出して、
せつらを捕まえようとした時、せつらがそう呟いた。

「ほう?」

 そのまま、背中から、せつらを抱きしめる。

「平安時代とかってさ、春の花と言えば、桜だったでしょ?
それで、貴族達は一生懸命桜の詞を詠むんだよ。
今日九重に〜、とか、しづこころなく〜とかさ。
新春を迎えると、貴族は焦る。
『まずい、今年も春の新作を考えなければ。
桜の詞は、先人達が既に、いい詞を多く詠んでいる。
けれど、やはり、桜の詞を一作は詠まなくては。
ああ、憎い、桜よ、何故おまえはここまで私の心を苦しめるのだ。
こうなれば、後世の者も苦しみを味わえば良い。』
そうして、平安時代の貴族の呪いに掛かった僕達は、
毎年春になると桜のことで一喜一憂するのさ。
桜が咲くのはいつだ、お花見はいつだ、あそこは桜が奇麗らしい、
桜ってのはここがいいんだ、もうすぐ散りそうだ、ってね」

「君が、桜と同じだったなんて知らなかったよ」

 せつらの耳元でメフィストが囁いた。
せつらは擽ったそうに、身を捩って、ゆるい拘束から抜けると
微笑みながら、返した。

「僕はもう散りそうかい?」

 メフィストは心外だ、とでも言うように、眉を上げた。

「まさか。さしずめ、まだ穢れの無い蕾だな」

 その答えに満足したのか、せつらは一歩踏み出して、
メフィストと唇を合わせた。
それこそ、花びらが舞い降りたような口付けだった。





 少し、長いキスの後 発せられた

「汚れたかな?」

というせつらの問いが、果たして、踏んでしまった桜が主語なのか、
せつら自身が主語なのか、流石の<魔界医師>にも分からなかった。















いずみ遊 2002年3月27日



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