昔はものを *いずみ遊* 歩いている拍子に手が触れた。 電流が走ったように思わず手を引っ込めたせんべい屋に向けて 白い医師は薔薇の如くに微笑んで、穏やかにその手を取った。 「今更、片想いの様な反応だな」 その冷やかしに対し、せんべい屋が何かを言いかけて ……口を噤んだ。 その逡巡を見て取って、医師はちらりと背後に目をやり、 長い廊下に誰もいないことを確認してから問う。 「何か?」 「いや、全くその通りだと思い当たって」 メフィストは完全に足を止め、せつらを振り返る。 深夜の病院。 音など殆どしない。 せつらはメフィストの瞳を覗き込んで首を傾げた。 「だってそうだろ?実質、僕の片想い」 廊下に、声が哀しく響く。 メフィストは微かに眉を寄せ、せつらの耳に顔を近づける。 芳しい薔薇の香り。 「あまり切なくなるようなことを言わないでくれたまえ」 聞く者が聞いたら、この医師にこんな科白を言わせたことを悔いて 首を括りそうな科白だった。 しかし、せつらは勿論動じない。 「偶には言いたくもなる」 「すまない」 せつらはメフィストの肩に手を回すと、 自分の耳元にあるメフィストの唇へ無理やり唇を合わせた。 病棟の廊下、しかも一般病棟、ということを慮って 躯を引こうとするメフィストを肩に回した手だけで制する。 暗い廊下。 足元を照らす光が、ぼうっと一列に並ぶ。 その中で白と黒が交じり合う……――この世のこととは思えない場景。 「きゃっ……!」 突然、メフィストの背後で微かな悲鳴が上がる。 「あ、院長先生だったんですね、驚いたー」 振り返ったメフィストを見て、12、3歳程のの少女が胸を撫で下ろす。 その院長先生が廊下で何をしていたかは疑問を持たないようである。 「眠れないのかね?」 慈悲深い神父の様に微笑んだメフィストに、少女は首を横に振った。 「ちょっと、甘いものが飲みたくて」 悪戯が見つかった子供のように照れ笑いを浮かべ、少女は小走りに メフィストの横を通り過ぎて行った。 果たしてその背後にいたせつらに気付いたのかどうか…… 「残念」 「せつら……」 「今度はもっと確実な所でやろうよ。 それか、あの子が帰ってくるのを待つか」 「何を言っているのかね」 「お前には分からないだろうね、 こういう時の僕がどれ程病んでいるか」 「とにかく」 院長室へ、と言ったメフィストに、 せつらは何も言うことなく素直に従った。 「ごめん。別にお前を困らせたい訳じゃないんだ」 差し出されたコーヒーを受け取りながら、 せつらは溜息混じりに謝った。 院長室に香ばしいコーヒーの香りが広がる。 もう12時を回ろうとしているのに、コーヒーとは。 ――そこには、せつらの心を静めようとする一方で、 最後まで彼の話を聞こうとするメフィストの意思が感じられた。 メフィストは自分のコーヒーカップをテーブルに置き、 せつらの横に腰掛ける。 白いケープがたおやかな波を作る。 「お前が、僕をどう思っているかなんて痛いくらいに良く分かってる。 ……分かっているつもりなのに、時々無性に問い質したくなるんだ。 お前の気持ちはどれ程なんだ、って」 コーヒーを一口。 独特の苦味が舌を刺激する。 熱い液体が喉を通り、食道を過ぎるのを感じる。 「――それは、物足りない、ということかね?」 メフィストはゆっくりとコーヒーを掻き混ぜながら問う。 中に砂糖やミルクが入っているわけではないから、 手持ち無沙汰にやっているだけなのだろう。 時々、スプーンがコップに触れ、独特の高い音が響く。 「……分からない。そうなのかもしれない。 僕が積極的に会いに来なきゃ、一週間に一度、会えるかどうかだし、 会ってもお前は大抵忙しいし。 それ自体は責められるべきことじゃないけれどさ」 そこで一旦言葉を切って、せつらは視線を落とした。 白い肌。 魔性の瞳。 柔らかな唇。 筋の通った鼻梁。 遠くを真っ直ぐに見ているその心。 全てを―― 「全てを欲しいだなんて言わないから……」 ――望むことはただ一つ。 「僕といる時くらいは、僕のことを」 ――愛してくれ。 「不安にさせないでよ」 ――我儘だとは重々承知だ。 ほんの数ヶ月前までは全く逆の立場だった。 邪険に扱うことなど、日常茶飯事で、 お前の気持ちを考えることもしなかった。 「僕を独占してくれ」 ――怖いくらい慎重な、真摯なお前を、壊したい。 「せつら」 視線を交えぬまま、メフィストが口を開く。 「残念だが君を独占したいという気持ちは私には無い。 仮令、有ったとしてもそれを表に出すことなどしないよ」 せつらはメフィストの横顔を見つめる。 その頬を漆黒の髪がさらりと撫でていく。 「私は現状に非常に満足している。 ――君がそうして想いを返してくれることだけで十分なのだ」 「それは……見てれば分かるよ。 お前は僕に対して何も求めない」 メフィストがふと顔をせつらの方へ向けた。 その表情は……表情は……――。 「めふぃ……」 「すまない」 そう言って、メフィストは視線を再び落とした。 部屋の静寂が怖くて、せつらはしがみ付く様に、 メフィストを抱き締めた。 その背にそっとメフィストの腕が回される。 「すまない」 互いに互いを見失っていたことを悟ってしまったから。 埋めがたい距離だけを、痛いほどに自覚してしまったから。
あひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり 有名な和歌ですが、私はこれがとても好きです。 一言1300キリ。キリリク内容は「切ない白黒」Byみうさん。リクありがとうございました。 楽しんでいただければ幸いです。 いずみ遊 2002年8月31日 *ブラウザを閉じてお戻り下さい* |