幸せなキス *いずみ遊* 薄く開いた唇から、細い息が漏れる。 赤く覗いた舌は、何処までも淫靡で、 それとは対照的に白い歯列は彼の性格を表すがごとく鮮烈に煌いていた。 ベッドに座り込んで、服も着たままで、 ただ口付けばかりを繰り返す。 その内、互いの水分組成まで全く同じになるのではないか、と せつらは心の中でぼんやりと考えた。 「今日はそういう気分ではない」 と、きっぱりと彼に言われ、半ば強引に口付けた。 躯が欲していても、断られたなら諦めるしかないのに、 それが出来ない自分。 大体、彼から積極的に行為を促されることはあまりなかった。 この男、平素から多くの男に心を移しながらも、その実、淡白だった。 一旦箍が外れたが最後、その熱はせつらの躯中を焼き尽くすに 余りある程なのに、彼の箍は容易には外れない。 「――そろそろ仕事に戻らなければならぬのだが」 再度キスをせがむと、彼は少し困った様にそれを遮った。 「仕事?そんなこと言ってたっけ?」 少し意地悪な気持ちになって、聞いてみる。 ベッドから降りようとしていた彼は振り返って、肩を竦めた。 仕方ないな、と。 「どうしたのかね、今日はいやに突っかかるではないか」 「理由なんて言わなくても分かってる癖に……」 伏せ目がちにベッドの端を見る。 暫く何も言わないまま、膠着状態が続いたが、 彼は軽く溜息をついて立ち上がった。 呆れられたのかと思って慌てて顔を上げると、 途端に、天井が目に入る。 その情報を脳が解読する前に、甘い香りに包まれていた。 ゆっくりと食まれる唇。 押し倒された、と脳は解読したがその割には穏やかな行為であった。 彼の黒髪がさらさらと光を遮る。 見つめていると彼が薄く瞳を開いた。 漆黒の瞳。 何時も、真っ直ぐなものしか見ない、瞳。 その瞳が、優しく微笑んだ。 「続きは私が帰ってから、ということで許してはくれないかね」 あんな微笑を見た後で断れるわけが無く、せつらはしぶしぶと了承した。 勿論、ただ首を縦に振るだけでは気持ちが治まらないので 最後にもう一言、意地悪な言葉を彼の背中に投げかける。 「でも、待ちつかれたから寝ちゃうかもしれないよ」 白いケープが揺らめく。 ドアの所で彼が肩越しにこちらを見る。 驚く程、真摯な瞳で。 「眠るのは構わないが有無を言わさず起こすぞ。 仕事だからと断った私を誘ったのは君だ。何をされても怒るまい?」 「な……っ!」 途端に頬を染めたせつらに向かって彼は更に一言。 「何か不満でも?」 ――あるわけが無い。 軍配は常に彼に上がり続けるのだ。 結局、彼が帰ってきた時、せつらはぐっすりと眠っていた。 彼はそっとベッドに近付いて、そのまませつらの横に躯を横たえた。 起こす気など更々なかった。 朝になって幾ら詰られようとも……。 普段は妖糸に引っかかるもの全てに神経を張り巡らせ、眠りも浅いせつらが それを少し緩めるのは、此処で眠る時だけだと知っているから。 「愛しているよ、せつら」 その言葉だけ伝えて。 彼もゆっくりと瞳を閉じた。 眠りに落ちる、その前に、 そっと彼を抱き寄せて、その頬に口付けを落として。 いずみ遊 2002年8月23日 *ブラウザを閉じてお戻り下さい* |