束縛するもの *いずみ遊*
くしゅん。
くしゃみを一つ。
もぞもぞと布団の中で丸くなる。
「あの藪」
呟いた声はかすれ気味で。
布団から覗く瞳は熱に潤んでいる。
秋せつら。
新宿の化身とも言われる彼は、
耐え難い悪寒で目覚めた。
詰まる所――
「風邪だ」
「ふむ、風邪だな」
大人しく布団で眠っていても、普通の風邪ならば
一日で治っただろう。
けれど、風邪の原因を考えれば慎重にならざるを得ない。
風邪の症状をした別の病かもしれない。
そこまで考えて、せつらは重い身体を起こし、
メフィスト病院までやって来た。
その甲斐あってか、院長自らの診察となった。
せつらにすれば、それは幸とも不幸とも言えないが。
「本当にただの風邪?」
ボタンを閉めながらせつらは念を押す。
ドクター・メフィスト、<魔界医師>にこんなことを聞くのは
世界に彼一人だろう。
「何か不満でもあるのかね」
「……いや、別に」
せつらは目を泳がせた。
それをメフィストが見逃すはずも無く、いとも簡単に顎を掴まれた。
「何かそれらしい妖物と戦ったのか?
それとも呪いを掛けられた可能性があるのか?」
メフィストの問いは<魔界都市>では至極当然の問いだった。
けれど、せつらは少し不機嫌そうに視線を落とした。
「……病原体はおまえだ、この藪」
「私は風邪など引いていないが」
せつらは顎に掛かるメフィストの繊手を掴んで、下ろさせた。
酷く冷たい。
……それとも自分の手が熱いのか。
だとしたら、家を出てからまた熱が上がったのだろう。
最悪だ。
早く治せ、この藪。
頭の中で罵っている内に、目頭までも熱くなってきた。
馬鹿野郎。
僕は――
「――また、泣かせる様なことを言ったかね、私は」
メフィストが柔らかな溜息をつく。
頬を伝う冷たい物。
涙……?
違う、これは感情の欠片。
せつらはそれを拭おうともせず、メフィストに噛み付くように口付けた。
薄い下唇を食み、弾力を味わう。
それから口内に侵略し、歯列をなぞる。
甘い
それが熱の所為なのか、本当にメフィストが甘いのか、
確かめる術を、今のせつらは持たなかった。
「…かったのに……」
ぽつりと、せつらが呟く。
透明な雫は、メフィストのケープにも滑り落ちた。
「……僕は嬉しかったのに、
おまえにとってはどうでもいいことなんだね……」
「――君はもしかして昨夜のことを言っているのかね?」
「もしかしなくたって、そうだ」
「あれが嬉しかったと、君はそう言うのかね?」
指摘され、せつらはまた視線を落とした。
恐ろしく頭の回転が鈍っている。
熱の所為だ。
熱と、おまえの所為だ。
「……だって……あれは、正気の沙汰じゃない……」
月の下で、熱を交わした――
まるで獣の様に。
だから……
「うれしかった……」
「……私はてっきり怒っていると思ったのだが――」
「怒ってたら、ここには来てない」
「新宿の廃墟で傷を負った肌を長時間露出していたとなれば、
翌日風邪を引いても、ただの風邪とは断定できない。
だから、ここへ来たのではないのかね?」
「……それでも本当に怒ってたら来ない。
……れ?何で……?」
せつらは漸く顔を上げた。
思いのほか穏やかな顔をしたメフィストと視線が交わる。
「おまえ、忘れてたんじゃないの?
怒ってるって……、僕が怒ってるのは、おまえが昨日の夜のことを
忘れて、僕の風邪を治療しようとしていた……から?」
「私に聞かれても分からぬが」
それもそうだ。
せつらはがんがんと低く響く頭を、フル稼働させて考える。
メフィストは、せつらの風邪をただの風邪だと断定した。
せつらが念を押すと、昨夜のことは一切口に出さず、理由を問うた。
だからせつらは怒ったのだ。
本当ならば、昨夜のことをメフィストは言わなければならなかった。
あれの所為で風邪を引いたのは素人目にも分かる。
「確か君は昨日、擦り傷を作っていたな。
妖物が入り込んだのかも知れぬ。少し詳しく調べてみるか」
その言葉さえあれば、せつらは満足したのだ。
彼が忘れていないという証拠を得て。
「忘れる訳がない。
だから私には君の風邪がただの風邪だと
調べなくても分かっていたのだよ。
勿論、あの前後に君が別の妖物と戦ったとか、
呪いをかけられた可能性が有るというのなら話は別なのだが」
何故、とせつらが問う前に、メフィストはケープから手を出し、
シャツの袖を捲くった。
沁み一つない肌に、数本走る紅い線。
それは、<魔界医師>に有ってはならない傷だった。
「君が昨夜つけた。
忘れたくとも忘れられぬだろう?
と、同時に私が風邪を引いていないということは、
あそこに身体に入り込む妖物など、君が倒した液体物体しか
いなかったということも分かるという訳だ」
せつらはメフィストの腕に有る傷を人差し指でなぞった。
彼が、こんな傷など一秒も掛からず治せる彼が、
自然治癒に任せるなど、理由は一つしかない。
せつらは敢えてそれを問うことはしなかった。
傷を手のひらで優しく撫でてから、そっとシャツのボタンを
留めてやる。
メフィストは一連の動きをただ静かに見ていた。
「これで納得してくれたかね?
私は君が怒っていると思ったから、昨夜のことは口にしなかったのだ。
忘れていた訳ではないし、忘れることも出来なかった」
「ああ、十分に納得したよ……。
頭を使いすぎた。
早く治してくれ」
せつらははぁと盛大に溜息をついた。
何で自分はこんなに悩まなければならないんだろう。
自分が悪いのだとは思う。
メフィストを、何時も疑っている。
今だってそうだ。
未だに残る傷を見て、安心しながら、
もっと確実な何かを欲している。
でも、それは果たして自分の所為なのだろうか。
いや、メフィストは自分に対して何の不誠実な態度も
取らないじゃないか。
やっぱり……。
「むぅ」
薬の調合をしていたメフィストの手が止まる。
「何か、不満でも……」
「僕はおまえが好きだ。それのどこが悪い」
「誰も悪いとは言っていない」
「おまえのそういう態度も僕を愛してこそだ。
だから、昨日、あんな場所で抱いたんだろ?
それが嬉しくて、何がいけない?」
「……」
「……好きなんだ……。
だけど、おまえの一言一言に敏感になる。
分かっていても、すぐおまえの気持ちを確かめたくなる。
……ずるいよ、メフィスト」
メフィストはゆっくりと試験管を回す。
中の液体が、青から赤へと変化する。
「こんなに好きにならせといて……」
今更、縛り付けたくないなどと――
からん……。
机に落ちた試験管。
零れる紅い液体――
「私を、完璧な人間だと思わないことだ、せつら――」
「……くる…しっ……!」
きつく抱きしめられ、せつらは顔を顰めた。
しかし、メフィストは腕の力を緩めようともしない。
「言ってしまえば最後だ。
私はきっと、この部屋に君を閉じ込めて一生外へは出さないだろう」
「めふぃっ……いたい……」
「――こうやって腕を緩めるのも、今だからだと考えておきたまえ」
漸く開放され、せつらは両腕を擦った。
けれど、視線は外さなかった。
その視線を、メフィストは避けることなく言った。
「言ってしまえば君を縛る言葉は、
言わないことで私を縛っているのだよ」
ぴちゃん、と紅い液体が床へ落ちる音が響く。
二人は暫く視線を絡めたまま、静寂を作り続けた―――
いずみ遊 2002年6月25日
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