kiss me to sleep *いずみ遊*
黒いリムジンが、夜の新宿を走る。
絡めた指を、時々過ぎる街灯が照らしていく。
音も無く、車が旧区役所跡地へと滑りこんだ時、
白い医師は漸く、閉じていた瞳を開いた……――
医師が招いたのは、言った通り、院長室だった。
ほの暗い部屋に、明かりが付いて、この部屋の主人を歓迎した。
「何で明かりをつけるかな」
言ったセリフとは裏腹に、酷く真面目腐った声が出た。
どうやら本格的に疲れているらしい。
ゴールデンウィークの馬鹿野郎である。
「明るく無くては治療は出来ない」
こちらも負けぬ位、真面目に、メフィストが答える。
常日頃からあまり表情に変化は見られないメフィストではあるが、
何となくなら分かる。
彼は疲れている。
――つまり、お互い様なのだ。
「まさか、おまえ、本当に治療するとか言うんじゃないだろうね」
せつらはソファーに腰を下ろしながら訊ねた。
その動作をするのも、少し身体が痛い。
身体は休息を欲しがっている。
けれども、素直に眠るには感情が高ぶり過ぎていた。
「君が風邪をひいているというのならば治すのが主治医の役目と
考えるが?」
どこまでも、根が医師らしい。
「ああ、もう、分かってるよ」
大人しく、せつらは首をメフィストに晒した。
さらりと、前髪が横へ流れ、耳を擽る。
しかし何故か、医師は顔を近づけてきた。
「んっ……」
――疑問を挟む前に、喉を食まれる。
てっきり、何時ものごとく、メフィストの指が何の衝撃も無く
喉に吸い込まれるのだと思って弛緩していた身体が鋭く反応した。
「おいっ、何時から治療法を変えたんだよ……」
生暖かい舌に、首筋をなぞられ、所々、強く噛まれる。
体温が上昇し、呼吸が速くなる。
「……治療法は絶えず変わるものだ」
漸く首元から顔を上げたメフィストは、濡れた唇を拭おうともせず言った。
酷く淫靡でどこまでも秀麗な男。
――惚れた欲目で無いのが恨めしい程だ。
「メフィスト……」
手を伸ばし、白い月を捕まえる。
視線が絡まり……――ふいに、消えた。
メフィストが意図して切ったのだ。
「すまない」
言葉と共に、ケープから手を退けられる。
―――また、かわされた。
度重なるメフィストの不審な態度に、とうとうせつらの頭に血が上った。
「ふ……ざけるな、誘ったのはおまえだ!
今更何を謝る必要がある?
僕は何の抵抗もしていないのに!!」
疲れていたのも要因の一つかもしれないが、せつらは久々に声を荒げた。
しかし、医師は顔色一つ変えない――
「分からない。おまえの考えていることが全く分からない。
僕に何を望んでいるんだ?
こんな風に煽っておいて、その癖自分から身を引く。
まるで……」
――……!
まるで……。
自分が言おうとしている言葉に、せつらは少なからずの衝撃を受けた。
まさか。
けれど……。
――せつらの葛藤をメフィストは静かに見下ろしている。
月。
静かな色を湛えた双眸。
せつらは苦しくなって、右手で胸を押さえた。
嫌な汗が、額から滲み出てくる。
そこまで深くは考えていなかった。
無意識に考える事を避けていた核心に、気付いてしまった……。
「……まるで……『私』が出てくるのを待ってるみたいだ」
するりと、零れ落ちた言葉。
――けれど、衝撃は痛みとなって全身に拡散した。
口から出た言葉は、直進を続ける訳が無く、自分の耳へと返って来る。
身体中が悲鳴を上げる中、頭だけが妙にはっきりと澄み渡っていくのが
分かった。
そうか、愚かなのは自分だったのか。
医師は、初めから、『僕』を通して『私』へと想いを届けていた。
ならば、『僕』はただの道化ではないか。
あの抱擁も、口付けも、全ては自分ではない者の為。
愛されてなど、初めからいなかったのだ……―――
「せつら」
「やめてくれ」
「聞きたまえ」
「嫌だっ!『私』に直接言ってくれ」
「……だから、君は鈍いと言っているのだ」
「ああそうさ。僕は鈍い。
おまえが本当は誰に向かって想いを向けていたのか、
気付かなかったのだからね。
……でも、それにしたって酷いじゃないか!
僕はおまえに抱き締められて、キスされて、嬉しかったんだ。
愛されていると、一人で勘違いしていたんだ。
何が主治医だよ、この薮医者!!
おまえなんてだいっきらいだっ!」
せつらは一気に捲し上げ、ソファーから立ち上がり走り出した。
もう一秒だってこの部屋には居られない。
いや、もう二度と来る事もないかもしれないと考えながら。
しかし……――
ドアノブを掴んだところで、冷ややかな白い声が
せつらの耳に滑りこんだ。
「この病院では、完治が認められるまで、退院は認められていないが?」
構わずドアを開けようとしたが、開かなかった。
こんなことは初めてだった。
何度かドアを押したり引いたりを繰り返したが、
開かないことは自明だった。
諦めて、ドアに額を付ける。
冷たさが、鈍い痛みを少し和らげた。
けれど……――
「……っく……」
止め処も無く透明な液体が頬を伝い、落ちていくのを止める事は出来なかった。
メフィストが側に寄る気配がしたが、
せつらがこれ以上逃げる事は叶わない。
身体を無理やりドアから引き剥がされ、ケープに抱き込まれる。
―――珍しく、メフィストの身体は温かかった。
涙の原因に抱き締められる、という事態に構っている余裕は無かった。
――いや、違う。
彼に抱き締められる、それだけで身体は落ち着きを取り戻し全てを許していた。
それに、頭がついて行けなかったのだ。
何故こんなにも、好きなのだろう。
触れているだけで、身体中に穏やかな空気が行き渡る。
優しく、宥めるように背中を擦る手から、熱が伝わってきて……
――心地よい。
二週間分の疲れが、ゆっくりと消えていく。
こんなにも、想っている……――
「……やっぱり、好きだよ、おまえのこと。
悔しいけど。
こうやって、抱かれているだけで、気持ちいい」
涙の後遺症か上手く声が出ない。
けれどメフィストが軽く頷いたのが分かる。
「はっきり言ってくれ。
『私』がいいなら、これ以上、僕に構わないで欲しい。
もっと好きになる。
――多分、おまえが誰を想っていようと」
メフィストが肩を押し、漸くまともに顔を合わせた。
彼は真っ直ぐにせつらを見詰める。
「私は言ったはずだが?好きにするが良い、と」
「……意味が分からなかった」
正直に答えると、メフィストは微笑した。
「だから、医師の仕事の範囲以外はこの身体諸共、君に捧げようと、
こう言ったつもりなのだがね」
「……」
「君は私よりも、恐らくは早く老い、死んで行くだろう。
それを私にはどうすることも出来ない。
私が君を想うことは、君が死んだ後にも出来ることだ。
けれど、君が私を想うことは、君が生きている内しか……
もしくは、君の心が変わらぬ間しか出来ないことだ。
ならば、そちらを優先すべきではないかね?」
「もっと簡単な言葉で言ってくれ」
「これ以上簡単な言葉で?」
「ああ、そうだ」
医師は、瞳の奥を覗き込んできた。
彼の目はどこまでも深い漆黒。
――何もかも暴かれる。
「まず、言っておくが、君が先程言ったようなことは無い。
君は君だ。それは私がよく知っている。
だから、『私』を想いながら君に触れた事など無いのだよ、せつら」
メフィストの手が上がり、泣いた所為で熱くなっている瞼に触れる。
冷たい指先が、気持ちいい。
そんなことはもうどうでもいい、と思う。
仮令もし、彼が今嘘をついていたとしても、彼に触れられれば
自分は全てを許してしまうのだ。
「僕の誘いを何度も断った理由は?」
気配でメフィストが苦笑したのが分かる。
話がばらばらなのに笑ったのか、それとも質問の過激さに笑ったのか。
……どうやら、後者だったらしい。
「女の様に肢体を無防備に晒し、身体を開くことに抵抗は無いのかね」
「……無いと言えば嘘になる」
メフィストが口を開く前に、せつらはもうワンセンテンス、加えた。
「けれど、条件としてはおまえも同じだ」
メフィストは驚いたように、微かに瞳を見開いたが、
すぐに笑い始めた。
天上の音楽のごとく響く声。
せつらはそれを自分の耳だけに閉じ込めようと、
メフィストに身体を寄せた。
「君が私を抱くのかね?」
「何が可笑しい」
「果たして、そうなるか」
「何で……」
メフィストの繊手が愛しげにせつらの髪を梳き、
唇がせつらの耳朶を甘く噛んだ。
「私に抱かれる方が、数百倍気持ちいいと思うがね」
「……今すぐ試してみる?」
挑戦的な科白を、メフィストは恭しく受け取った。
そして、せつらの手を取り、褥へと導く……――
それはまるで、神が悪魔を招くような、悪魔が神を唆す様な
そんな、妖しい場面だった。
そっとベッドに腰掛けて、せつらはメフィストへと両手を伸ばした。
メフィストは腰を屈め、殊更ゆっくりと唇を合わせる。
歯列をなぞり、舌を絡めとり……後は、互いに侵食し合うのみ。
唇を離した後でさえ、せつらには暫く自分の唇と舌の感覚が
あやふやであった。
「今日は大人しく寝たまえ」
激しい口付けとは裏腹に、メフィストは穏やかに告げた。
そして、せつらの疑問を受ける前に、軽くせつらの肩を押し、
ベッドに寝かせると、自らもベッドに乗り上げた。
ぎしりとベッドが軋む。
重量オーバーとでも忠告したいのだろうか。
白い医師は薄く笑って、
ダブルベッドを注文したら、婦長は驚くかな、と呟いた。
「ダブルベッドは嫌だよ」
「何故かね?」
メフィストが腕を伸ばし、せつらを捕らえる。
と言っても、彼に逆らう意思は無く、あっさりとメフィストの胸に収まった。
少し頭を動かして、溜息を一つ。
「この状態で、眠れだって?
おまえ、ホント、学習能力が無いんじゃないの?」
「……君は疲れている。しかも、風邪引きだ。話もさっきから混線している。
ならば、君を休ませるのが医者の役目だ」
「この状況で、大人しく寝ろって?……いや、……
なんて言うか、まさか、こんなことになるとは、って気分だよね」
せつらの言葉に、メフィストは彼の髪に口付けることで先を促した。
どうやら、あちこちに飛ぶ話を全て大人しく聞くことにしたらしい。
「おまえのことなんて、ほんっと〜にどうでも良かったんだ、僕は。
おまえだって知ってただろ?そんなこと。
なのに、なんで今、こんな状態になっちゃってるんだろう。
おかしい。
おかしすぎる。
おまえに触れられるだけで、気持ちいい、今すぐ抱かれたいなんて
ただのヘンタイじゃないか」
「それについて、私はコメントした方が良いのかね?」
「いや、いい。っていうか、ヤだよ。
僕の方がおまえのこと好きみたいじゃん」
「そうではないのかね」
せつらは首を反らしてメフィストを睨む。
メフィストは軽く唇を合わせてきた。
「……僕の方が我慢が出来ない」
「それは、脳と身体の発達の話になるが、
この状況で語るべきことでもあるまい」
微かに唇が触れ合う距離で、内緒話の様に会話を交わす。
密やかな吐息も、全て吸い込んでしまおうと、
貪欲な身体は、互いの距離をどんどんと無くしていく。
「大体、おまえから僕に何か言うことは無いのか」
「言葉が欲しいかね?」
「ほら、そうやってまたかわそうとする。
その度に僕は傷つくんだ。学習能力、0」
「それは、すまない」
「なら、態度で示せ」
メフィストは穏やかに微笑むと、上半身を起こし、せつらに口付けた。
初めは啄ばむ様に、そして、次第に貪る様に。
せつらは、メフィストの絹の様な髪に手を通し、もっと深くと強請った。
彼の想いは痛い程伝わってくる。
言葉にしなくても、触れ合った指先から、唇から、流れてくる感情。
戯れの表層で泳ぐ物よりも深い深い情念がそこにはあるから。
……それでも言葉が欲しいよ、メフィスト。
今は叶わなくてもいい。
おまえが待ち続けた時間分、待ってもいいから……―――
「なら、寝るよ。
……眠らせて、メフィスト」
できるだけ、甘く囁く。
メフィストは柔らかに、そしていとおしむ様にせつらへ口付けを落とした。
――本当に、キスの上手い男だ。
白雪姫は王子のキスで目覚めたけれど、
王子のキスで幸せな眠りに落ちても罰は当たらないだろう。
「おやすみ」
身体を寄せて……―――
――ダブルベッドじゃ、抱き合って眠る理由が付かないだろう?
いずみ遊 2002年5月18日
*ブラウザを閉じてお戻り下さい*
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