Emergency *いずみ遊*





「あら、秋様」

 心が弾むような声は、秋せつらの頭二つ分低い所からした。
紫サテンのワンピースを着た可憐な少女が、笑みを湛えて
せつらを見上げている。

「やぁ、こんにちわ」

 少し、身を屈め、少女に微笑み返す。

「お使いかな?」

「ええ、そうですの」

 その可愛らしい少女が、造り物であると、誰が一体気付くだろう。
少女の柔らかそうな肌の下に赤い血が通っていたとしても、
頷ける程なのに。

「鈴蘭を一抱え摘みに。秋様はどちらへ?」

「藪医者の所へ、ちょっと」

「まぁ」

 少女はその小さな両手を口に当てた。

「何か驚くことでも?」

 せつらは首を傾げた。
すると、少女は少し恥ずかしげに俯き、首を振った。
それに合わせて、ワンピースが揺れる。

「いいえ、あの――」

 少女が言った言葉に、せつらは、あちゃぁと空を見上げた。














「毎度〜」

 何時もの挨拶をしながら、せつらは院長室のドアを開けた。
ドクター・メフィストは、全ての美を凝縮した形でそこに座っていた。

「……君は余程、暇を持て余しているらしいな」

 読んでいた本から顔を上げ、メフィストが溜息を吐いた。
人が見れば、<魔界医師>に溜息を吐かせる原因を想像し、
発狂するだろうが、せつらはそんなことに構いはしない。

「ちが〜う、忙しい中、態々来ているんだ」

 がさ、とメフィストの目の前に、袋を置く。
「秋せんべい店」、そう書いてあった。

「しかし、その暇を作れるほどには暇なのだろう?」

 顔を上げたのは一瞬で、メフィストは再び本に視線を戻していた。
せつらが見ると、そこには、生物とも動物ともとれる、奇妙な物体が
描かれている。
自分を見るより、この変な物体を眺める方が優先されるのか?と
せつらは唇を尖らした。

「おまえも、本を読む程には暇なんだろ?」

 素早くメフィストの顎をとり、口付ける。
二人の視線が一瞬交わり……――
態と音を立てて、せつらは唇を離した。

「その発言には、多少の誤解がある様だが……」

「はいはい、悪うございました。
『君が、30分後に行く。院長室にいろ、などと言うから
往診にはダミーをやることになってしまったのだ』とか
言いたいんだろ?」

 せつらは机に座り、メフィストの手を本から奪うと
そのままぱたん、とページを閉じた。

「私も君に合わせて、暇を作る羽目になった」

 メフィストは本を返せとばかりに、せつらに繊手を差し出す。
せつらは面白くなさそうに、本の表紙を眺めた。


 どうやら、今日、メフィスト病院では、唐突に担当医が変わった
手術が幾百とあったらしい。
しかし、そんな事はせつらにとっては、どうでも良い事であった。
これを機に、メフィスト病院が信頼を失い、患者数が減れば
万々歳である。
――そんな事は、現実にありえる話では到底ないが。


「ふぅん。それで、何時間、暇なの?」

 本を逆さにしたり、ぺらぺらと中身を捲ったりしながら、
せつらは尋ねた。

「……1時間、と言いたい所だが……」

「何」

「何時、急患が運び込まれるか分からん。
よって、時間で区切る事は出来ない」

「藪」

 何時もの皮肉に、メフィストは肩を竦めた。

「じゃぁ、急患に怯えつつ、1時間過ごすのに、
この本と、僕と、どっちをおかずにするんだ?」

 せつらは弄んでいた本を、机の上に置いた。
すると、メフィストの手は迷わず本を掴んだ。
それを咎める様に、せつらはメフィストを睨む。

「おい…――」

 自分の手に重ねられたせつらの手を見て、
メフィストはふ、と微笑んだ。

「君にしては、せっかちじゃないか」

 本を片手に持ち、メフィストは立ち上がった。
その拍子に、何とも言えない香りが広がる。
香りを引き連れて、メフィストは書庫へと歩いて行く。
どうやら、本を書架へ戻すだけらしい。
せつらは、ふんと、鼻白んで机から下りた。






 暫くして戻ってきたメフィストは、元の位置には戻らず、
せつらを自分の両腕を机とで囲った。





「それと、君をおかずだなんて、私は思っていないが?」

 せつらの頬に唇を寄せながら、メフィストが囁いた。
どの様な場面であっても、ドクター・メフィストを形容する言葉は
決まっている。
「美しい」
その一言のみだ。
しかし、そのメフィストにも劣らない美を手に入れた男がここに一人。
秋せつら。
この二人が、身体を寄せ合っている所を見たら、
<区民>ならずとも、あまりの美しさに硬直するしかないだろう。
或いは、失明する者も出るかもしれない。
そんな、情景であった。


「ふぅん?」

 瞳を薄く開いて口付けを受けるせつらの手が
メフィストの背に回った。
必然的に、せつらが体重を預けていた机に
負荷が掛かったのだろう、みしりと音がした。

「まぁ、おかずだろうと主食だろうと、
食べることには変わりないけどね」

「1時間とは、随分長い食事だな」

 剰え両腕を机につく事で身体を支えていたのに、
更に、机側に立つ、というより机に寄りかかっているせつらに
抱き寄せられ、どれ程腕に負担が掛かっているか想像に難くないが、
メフィストは平然と切り返した。

「そうかな、フランス料理のフルコースも、会席料理も、もっと長いよ。
二日間食べ続けの席だってあるし」

「二日間、ね。満漢全席だな」

「でも、流石に二日間食べっぱなしじゃ、飽きるだろうね」

「さて」

 それが、満漢全席へ対する返答なのか、否か、
流石のせつらにも判りかねた。
そこで、意趣返しとでも言わんばかりに、
メフィストの脚の間に自分の脚を滑り込ませる。

「……ねぇ、僕、こうやって身体寄せ合って話す為に
来た訳じゃないんだけど」

 可愛らしく小首を傾げられ、メフィストは苦笑を漏らした。

「注文が多いな」

「……だって、食べるんでしょ?」

 せつらは、メフィストの背中に置いていた手を、首筋へと上げ、
ぐい、と顔を近づけた。

「成る程。では、私は草原で猿芝居をした猟師かね?」

「宮沢賢治も真っ青だね、そりゃ」

 会話の合間に、戯れのようなキスを繰り返す。
彼の作家も、こんな状況で自分の作品のことを語られるとは
露とも思っていなかっただろう。

「もっと……」

 深く、とせつらが熱に浮かされたように呟く。
白い医師がそれに応えようと、重心を傾けた時……――

「院長」

 と、呼び掛ける声がした。
一瞬、せつらとメフィストは顔を見合わせた。
とは言っても、既にこれ以上に無い位、近づいてはいたが。

 せつらより早く、メフィストが動いた。

「何かね」

 位置関係からすれば、その声は、メフィストの背後からした。
せつらはゆっくりと視線を上げる。
ホログラフィーが浮かび、そこには看護婦が映っている。

「急患です」

「分かった。すぐ行く」

 現れた時同様、音も無く、映像は消えた。

 映像が消えた後も、暫く様子を伺うように
空中を眺めていたせつらだったが、漸く口を開く。

「何だよ、人が悪い。こちらの様子は見えないなら
見えないと言ってくれればいいのに」

 思いっきり、目が合っちゃったじゃないか、と愚痴も付けて。

「本当に、見えないと思ったのかね?」

「おい」

「――冗談だ」

「そうしてくれ」

 珍しく情けない声で、せつらは溜息を吐いた。


「あ〜あ、1時間どころか、20分だって経ってないよ」

 するり、とメフィストから腕を下ろす。
この医者が、何よりも患者を優先する事など、
<区民>の誰よりも身に沁みて知っている。


「すまない」

 一言、メフィストは呟くと、せつらに口付けた。

 先程までの、遊戯の様な口付けではなくて、
全てを奪いつくすような
あらゆる思念を送りつけるような
そんな口付けであった。

 時間にすれば、5秒かそこらだったが、
濃厚なそれは、残り40分を埋めたらしい。
せつらは、仕方ないね、と照れた様に言って、
再び縋るようにメフィストのケープを掴んでいた手を離した。







「惜しいがね」

 夢の様に呟いて、白い医師はドアの向こうへと消えて行った。
彼を求める患者の元へ……――







「いちいち、おまえの患者に嫉妬してたら身が持たないけど……」

 ずず、と机のへりにそって、腰を下ろしながら、
せつらは両手で頭を抱えた。

「腹ただしい事態ではあるよね」

 医師を自分の腕から奪った患者がか、
それとも、たった5秒の口付けで全身の力が抜けてしまった
自分がか……――




「その両方っていうのも、更に腹が立つけど」





















「いいえ、あの――」

 先程、道端で出会った、少女の鈴のような声が蘇る。

「物凄く嬉しそうなお顔をされているので、
まさかメフィスト先生の所へお出掛けとは
考えが至らなかったのです」





 ――全く、何もかもが由々しき事態である。

せつらは再び溜息をついた。











いずみ遊 2002年5月4日



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