祝福の雨 *香 雪蘭さん*











<魔界都市>にその日、一時(ひととき)に雨が降った。




――何故、こんなにも雨が降るのだろう…。
帰れないじゃないか。
"新宿"が誇る白い医師の広大な病院。
その一室から雨の降り続く窓の外を眺め、彼はふと、そんなことを思った。
今日の朝目覚めたときは珍しく晴れていると思ったのだが、
夕方からまた降り始めてしまい、帰るに帰れない。
彼ほどの人間ならば一度や二度雨にあたった所で、大した影響もない。
せいぜいが冷えて風邪を引くくらいだ。
それは理解っていたがそれでも、
彼は雨にあたりながら帰宅する事に躊躇いを覚えていた。
――何時もなら雨なんて気にならないのに。
それもそうだ。第一、一年の三分の一以上が雨の日なのだから、
いちいち気にしていたら仕事など――副業はおろか、
例えば本業の為の商品の買い付けでさえ――出来たものではない。
雨にあたることが嫌なら、タクシーを呼ぶなり、
ここの院長に送ってもらうなりすればいいのだ。
それも理解っているのに、帰りたくない。
しかし勿論、帰りたくないのなら、ここに泊まっていく事になる。
彼は現在、至って健康であり、"院長の患者"ではない。
だが彼が、一晩泊めてくれ、といえば美貌の病院長は
喜んで部屋を提供してくれるだろう――下心付きで。
もちろん、一泊していく気はないし、白い医師の下心など
受け取るつもりもない。
だが、このままここで悩んでいても、早めに結論を出さなければ
いずれそうなる。
――それでも、帰りたくない……。
茫洋と美貌を霞ませ、雨を見つめたまま、
一人ぐるぐると悩み続けていた彼だが、部屋に人――か、
それに近いモノ――が入ってくる気配を感じ、我に返る。
「帰りたくない…」
我に返ったのだが、先ほどまでの思考の名残が
つい口を突いて出てしまった。
「ならば、一晩泊まっていくかね?」
「イヤだ。…………はあ…」
耳聡くこちらの呟きにも等しい言葉を捕らえたらしい、
侵入者の投げ掛けた言葉は素早く跳ね返したが、
今度は溜息をついてしまった。
「おや」
溜息をついたことに訝しげな表情を浮かべて、医師が近づいてきた。
彼の向かいのソファに腰を下ろし、こちらの顔を覗き込んでくる。
その顔は「医師」で、下心が全く感じられないので何となく逃げづらく。
「どうかしたのかね?」
と、訊かれたときには常に無いほどの近くに、
真摯な表情を浮かべたその美貌があった。
医師の白い手が、伸びてくる。
優雅にこちらに伸ばされるその動きに、つい見惚れる美貌に
繊手が触れた。
ひやり、と相手の冷たい手を感じた瞬間、
はっとした彼は医師の手を振り払おうとしたが。
「……え?」
しかし乱暴に手を上げようとした途端、
医師の手がどこに触れたかを認識する。
額に置かれた冷たい手は寧ろ心地良いくらいだ。
「少し熱がある」
「ねつ……?」
「ああ、過労だな」
「過労って……」
「君のことだ、また睡眠も取らずに仕事をしていたんだろう」
言われてみれば、そうかもしれない。
そもそもこの病院を訪れたのだって、人捜しの対象人物を入院させる
――全身が癌細胞になり掛けていた――ためだったのだ。
依頼がたて混んでいて、三日ばかり寝ていない。
その上、あちこちで立ち回りをして来たのだから、
いかに彼と云えども仕方が無いことなのかもしれない。
「少し休んで行くといい」
もう夕方と言うには遅すぎる時間だった。
ここで休んで行くなら泊まって行く事になるだろう。
だが、灰色に煙っていた空は何時の間にか、
深い群青と銀盆を湛えている。
――まあいいか。
何時の間にか雨は止んでいたが、確かに酷く疲れているし、
今更帰るのも面倒だ。
「……じゃあ、一寸疲れたみたいだし、お言葉に甘えて」
「こちらこそ、喜んで」
しかし、医師がそう言った後、一瞬嬉しそうに微笑んだことを
見逃さなかった彼は、一言言っておく事だけは忘れなかった。
「夜中に忍んで来るなよ」



* * * * *



深夜、ふと眼を覚ましたらやはり、いた。
釘を刺しておいたものの、あまり効果は無かったらしい。
運――というよりも勘――というよりも本能――の良いことに、
医師もここへ来たばかりらしく、
まだドアからこちらに向かってくる途中だ。
――さて、どうしたものか。
だが、この医師のせいで疲れた体を起こすのも面倒だ。
いっそ、寝たままでいて、言い訳できないような状況になるまで
待っていようか。
あれこれと考え――と言うかなんと言うか――を巡らせているうちに、
侵入者が枕元にまで近づいてきてしまっていた。
何時の間にか、かなりの至近距離にいる。
とりあえず、寝たふりをする事にした。
医師がすっと身を屈めた。
寝入っている風な彼を起こさぬよう、静かにベッドの端に腰掛ける。
彼は医師の手が伸びてくるのを気配で感じ、
反射的に逃げようとする身体を意志で押さえつける。
それでも、妙なことをしたら容赦をするつもりは無かった。
しかし、伸びてきた手は静かに彼の髪を撫で付けるに留まり、
こっそりと身構えていた彼を少々拍子抜けさせた。
だが、優しく顔の輪郭をなぞっていく手は心地良かった。
それだけで、身体の奥に沈んでいた疲れが溶けていくようだ。
少しの間医師はそうしていたが、やがて、
眠っているような――もちろん、彼が眠っていないことには
気付いていた――彼の身体から緊張が解けた事が判ると、
手を離してそっと立ち上がった。
――本当にそれだけだったのか?
医師が離れていく気配に、彼はほっとする。
そしてその一瞬後、彼自身、信じられないような事を
心の中で叫んでいた。
――いかないで。
既に歩き出していた医師が、立ち止まった。



* * * * *



いったい自分はどうしたと言うのだろう。
欠片も寝乱れた様子の無い自分の身体とシーツを見下ろして、
彼はぼんやりと思った。
目覚めたらもう、昼に近い時間だった。外はからりと晴れている。
何もかもが夢だったような気がしたが――。



「気分はどうだね?」
何時もの様に、医師は何時の間にかそこにいた
――或いは最初からいたのかもしれない。
「どうだね、じゃないよ。最悪だ」
「それはそれは。だが、体調は悪くないと思うが」
「体調だって、良くない。だって――」
「だって、何だね?」
「……何でもない」
――だってまだ、身体が火照っているような気がするんだ。
まだお前に抱かれ足りないだなんて、言えない。
少しの間の後、彼はこう続けた。
「……昨日のことは忘れてやる。金輪際、あんな真似はするな」
――今夜も泊まっていこうかな。
美しい医師は、そんな彼の想いを見透かしたように
ただ微笑むだけで、答えなかった。



* * * * *



あの雨のせいなのかな、素直になれたのは。
あの日、ここに泊まっていくきかっけになった、
もう数週間前のことになる夕立のような雨を彼はふと、思い出した。

――白い医師の、腕の中で。











香雪蘭さんより頂きました!!甘い、甘い。最後の一行で、私は机に突っ伏しましたよ。
初めて完結させた小説ということなのですが、言われなければ分かりませんよね。
語感がステキです。
タイトルはいずみが付けました。ごめんなさい……。
思わず微笑んでしまう小説をありがとうございました。           2003年3月25日




*ブラウザを閉じてお戻り下さい*