Falling moon *いずみ遊*










 足元に視線が落ちる。
美しい唇が、一瞬留まった後、三日月に歪められた。
白い影は、<新宿>からはるか遠く、この古の姿を留めている都でも、
月光に祝福され、光り輝いていた。






 ドクター・メフィストは、ドアをロックすると、漸く張り詰めていた空気を
僅かばかりではあるが緩めた。
目の前にあるのは様々なしかし、一見してそれとは分からぬ実験器具と、
役目を待つ各種の薬品たち。
今回の渡英は、勿論、医者の集まりに参加するためでもあったが、
こうして珍しい欧州の医学に触れるという目的もあった。
主催者側から好意で貸し出された実験室は、会議づくしでやや辟易していた
院長の心を、和ませたらしい。

 部屋の明かりはつけずに椅子に座り込む。
沈みかかっている月の光が差し込む実験室に、メフィストの影は無い。
影を切り取られた、と気付いたのは、上空1500メートルでのこと。
引き返すわけにもいかず、少々嫉妬深い恋人に苦笑するしかなかった。
しかし、何やら体中、動かしにくくて敵わない。
――まさか自分の影が恋人によって縛られているなどという考えが
メフィストに思い浮かぶわけが無い。

 暫く、彫刻のように微動だにしなかった院長は、
一息つくと、目の前にある巨大な機器へ手を伸ばした。

 その時。

「此処にいらっしゃいましたか」

 開くドア。
入ってきたのは、白衣の前をだらしなく開け、細身の黒いジーンズを穿いた
青年だった。
ブロンズの髪、灰色がかった蒼い瞳。
理知的なメタルフレームの眼鏡を、中指で嵌め直しながら微笑む姿は、
若い女性なら一も二もなく擦り寄っていってしまうだろう程に美しい。

「お部屋に戻っていらっしゃらないので、随分と探しましたよ」

 手の中で弄ばれているのは、この部屋の鍵だろう。
暗証番号をセットして入る実験室でも、マスターキーは有機物なのだから、
おかしい。人間はとことん機械を信用していないらしい。

「何か用かね?」

「ええ、貴方に個人的興味がありまして。
ドクター・メフィスト――悪魔の名を持つ医者に」

「私はこれから、スミス博士のご好意で使わせていただいているこの実験室で
幾つか試したいことがあるのだが。Dr……」

「キルケ、とでも。
片田舎で、年中実験と称した娯楽ばかり行っている医者の端くれです」

「Dr.キルケ。話ならば、後にしていただきたい」

 しかし、キルケと名乗った男は、ずかずかと実験室に入り込み、
メフィストの側らに立った。
それだけでも、天罰が下りそうなのに、彼は更に手を伸ばし、
無礼にも、幾人もの美女の羨望と妬みを集めそうな肌に触れる。
遠慮の無い影が、透ける程白い肌に落ちる。
若者は、一瞬、目の焦点を失い、しかし、次の瞬間、大胆に顎を捕えていた。

「素晴らしい。実に興味深い。
成る程、貴方は生まれながらにして神に祝福された悪魔、という訳ですね」

 言いながら、<魔界医師>に顔を近づける。
顔を逸らそうとしたメフィストの動きが、唐突に止まった。
……故に、簡単に二つの唇は重なった。
感触を確かめるように、数度、触れ合った後、長い口付け。
つ、と血が流れ出す。
若者のものではなく、ドクター・メフィストという名を持つ男の首から。






「実は、貴方がこの街に降り立った時に、一度すれ違ったのです」

 動かないままの医師から一枚一枚、衣服を脱がしていく。
その合間に、その首から流れ続ける甘い香りを放つ血を舐め取りながら。

「影が無いのに目を引かれましてね。見上げたら、貴方の美しい後姿。
会議で貴方に再び逢った時の僕の喜びをどう表現したらよいやら」

「――思い出したよ。Dr.キルケ。
一ミリ単位で人間のツボを解析した功績者」

「貴方の耳にまで僕の話が入っているとは、嬉しい限りです」

 異様に爪の尖った人差し指に付いた血を舐め、キルケは微笑んだ。
同名の神話世界の人物も、この様に魅力的だったに違いない。

「まさか、<魔界医師>にも効くとは思いませんでしたが。
……いや、貴方の影と関係があるのでしょうね。
切り取った相手が、貴方の影に何かやらかしたのか……」

 楽しげに笑う姿は、無邪気としか言いようが無かった。
本当に自分を、ただの田舎ものの医者を思っているのかもしれない。
指一本で、メフィストを思うままに動かしながらも。
<区民>が見れば、その光景を見た自分を呪うだろう。

「しかし、辺鄙な村に住むまがい物の医者である僕まで、
その高名を聞く貴方が、自分の影を奪われてそのまま、というのは?」

 メフィストは答えなかった。
既に、遥か海の向こうから与えられる愛撫に、じわりと熱が上がってきていた。
キルケは気にした風もなく、シャツの最後のボタンを外し、床に落とした。
影のない医師の下に、穏やかな波が広がった。






「凄い……。眩暈がしそうですよ、ドクター」

 椅子から立たせた医師を壁に押し付け、執拗に躯中に指や唇を這わせていた
キルケは、指を後ろに滑り込ませるにあたって熱に浮かされたように呟いた。
そこは、少々の抵抗の後、直ぐにキルケの指の侵入を許し、
柔らかに、しかし燃える様な熱さで包み込んだ。

「貴方は躯中が性感帯なのですか?
それとも、貴方の影を手にした相手も、こうして僕のように背徳の行為に
耽っているのですか?」

 何処かのせんべい屋が聞いたとしたら、「どっちも大正解」と返答しただろうが、
残念ながら、メフィストはそんな親切心は持ち合わせていなかった。
何もかもが不本意すぎて……。

 急に決まった会議の出席で、恋人と肌を重ねたのは一ヶ月以上前のこと。
その所為で、全身に感じる恋人の感触は、常よりメフィストを苦しめる。
普段ならば、この様な刺激で此処までは乱れない。

――実に、不本意だ。

「っ……ん」

 キルケの指がメフィストの中をじっくりと開いていく。
時同じくして、馴染みのある感覚が、メフィストの中を掻き回していく。

「せ……っ……」

「se?」

 指を二本に増やしながら、キルケはメフィストの耳朶を食んだ。
びくり、と白い躯が反応する。
そこも、ツボ。

「ああ、貴方の影はSHINJUKUに置いて来た恋人への抱き枕でしたか」

「ああっ……ん……」

「確かに。貴方を二週間も手放す、なんて結構な忍耐が必要でしょうしね……」

 躯を侵食する、二つの感触に、メフィストはほとんどキルケの言葉を聞いてはいなかった。
それでも、キルケは言葉を重ねていく。
次々に、白く、薄い肌に花びらを散らしながら。

「二人の人間に同時に犯されるというのはどんな気分です?
<魔界医師>と雖も中々この様な機会は無いでしょう?」

「は……ああっ……あ……」

 潤む瞳が映すのは、目の前の青年ではなく、遠い国にいる恋人。
それが嗜虐心を煽るのか、キルケは先程とは違い、愉悦に浸る笑みを見せた。
 ……しかし、<魔界医師>の瞳に残る何処か冷めた光を彼は見逃していた。

「ふふふ、もうそろそろ、もっと太いものが欲しいでしょう、ドクター」

 卑猥な言葉を耳元で囁きながら、キルケが腰を押し付ける。
圧倒的な熱を宛がわれ、メフィストは低く呻いた。
――それを、耐え切れない快楽によるもの、と勘違いしたのが、
キルケと<魔界医師>の大きな差である、と言える。
影を抱いている彼の恋人が、この時のメフィストの声を聞いたなら、
すぐさま、躯を離しただろう。





 メフィストはそっと右手を上げた。





「それとも、SHINJUKUにいる恋人が既にしんっ……ぐ……」

 うっとりとメフィストの中に自身を入れようとしていたキルケの
表情が、驚愕に変わる。
瞬時に首から上を紫にさせたキルケをメフィストはやや下の方から、見下ろした。

「愚か者」

 しかし、直ぐに興味を失ったように、視線を逸らす。
右手にキラリと光るもの……。それは、不可視の糸。
恋人の武器で、キルケの首を絞め上げたメフィストは悠然と衣服を着た。
ケープを纏い、普段と変わらない格好を整えた後、漸く、糸を緩める。
途端に咳き込んで、キルケは床に倒れこんだ。

「な……何故……」

「何故?この私に理由を問うのかね?」

 ただ、立っているだけなのに、圧倒的な存在感。
沈みかけた月が、最後の光をドクター・メフィストに捧げていた。

「ま、…さか……最初から効いてなかった…とでも?」

 メフィストはさて、と呟いて、ケープを翻した。
神々しい後姿は、キルケが最初に彼を見たときよりも、
更に強烈な色香を放っていた。
けれど、それはキルケの功績ではなく、遠い異国の……――

「……!」

 キルケはある考えに思い至り、息を呑んだ。
彼の首を絞めた妖糸の跡は、恐らく一生、消えないだろう。

「もう少し私に余裕があれば楽しめたのだが、残念だったな、Dr.キルケ。
まぁ、君がせつらの代わりにならぬことなど分かりきっていたがね」

 扉のところで肩越しに視線を送ってきた<魔界医師>の瞳を、
キルケは恐怖とそれに勝る陶然とした気持ちで見つめ返した。

「誰かがこの部屋を見つけてくれることを願うのだな」

 そう言って、メフィストはやや気だるげにドアを閉めた。






 ホテルの一室に戻ったメフィストは、ベッドに横たわった。
夜明けは近いが、<新宿>はまだ夜中だろう。
目に見えぬ恋人の愛撫に、身を委ねる。

――このまま帰国すれば殺されかねないな……。

胸元に残る刻印を思って、メフィストはひっそりと笑みを漏らした。






 数年後、何故か、大切な実験室が「発見」された。
その数年間、誰もがその実験室の存在を忘れていたのだった。
扉を開けると、これまた何故か、完全にミイラ化した男の遺体があった。
更に不思議なことに、その遺体は両手を綺麗に千切りにされていた。
その間隔の狭さは、
「刃物では無理。もっと細い糸のようなもので切るしかないのだが……」
と、ミイラと共に各国の医者を悩ませたのであった。

 ――<新宿>に戻った<魔界医師>が、恋人にどんなお仕置きを受けたのかは、
また別の話である。










強気メフィ受けが書きたかったので。色んな人にごめんなさい。
私としては、部屋に戻ったメフィが、自分で慰(自主規制)
師匠のように、潔く、リアルで美しさを求めないセクシーな話が
書けるようになりたいです。            いずみ遊  2003年3月24日



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