月下の溜息 *哀夢さん*








「血が沸騰するって、どんな感じ?」

唐突な質問だった。

「まだ体験したことはないのか?」

空恐ろしいセリフだが、メフィストとせつらの間にあって
不自然すぎるとはいえない会話である。
実際、それに近いことやもっと危険で不可解なことも、この二人には日常だった。
そんな術を使う奴もいるだろう、…この魔界都市にならば。

「…だと思う。ねぇ、どんなカンジなの。
今日のお客が、そんな表現をつかって話をしたんだ」

質問に答えて。
毛並みの良い猫のように瞳をくるとまわして、せつらは医師をみあげた。
その肌は陶器のようで、ひとつのくすみもない。
コートを脱いだ下の、際立つその白い質感。
月明かりに寧ろ青白いように見える肌と唇とは、
メフィストを高ぶらせるのに充分な刺激だった。


「…っ」

タン、と軽い音を立てて、院長室の大きめの応接ソファが軋んだ。

「痛いってば」
「挑発したろう」
「…自意識過剰。たまってるの、センセ?」

のしかかられ、メフィストの美貌を間近で見ても、慌てるふうでもない。
ほうけたような瞳に、口元には微笑みさえ浮かべて。

…愛しいとか、そんな感情ではないような。
この男を、閉じ込めて自分のものにしておきたいと
―――その先の結果がわかり切っているのに、あわよくば奪い尽くしてしまおうかと。
奇妙な感覚にとらわれながら、メフィストはせつらの口腔を侵した。
目を閉じていなくて、離れるとすぐに眼が合う。

「どういう風の吹き回しかな」

抵抗のひとつもなしか。
と、ふいに影が揺らぎ、首に手が伸ばされた。


「…『私』がいい?」

その瞳に先ほどとは違う色が帯びている。

「――――…」

その変貌に、メフィストの眼が細められた。
首元に添えられた手は明らかに力がこもっていて、彼の銀糸の感触を伝えている。
それもいい、と一瞬思った。
しかしそれ以上に、自分を魅了する強い眼差しが、悲しかった。
自分では気付かない、それはまるで
――――お前などいらないと言い渡された、子どものような。

知らず、微笑をとどめられなかった。
…君は何も、分かっていない。

「さてね。自意識過剰は君のほうじゃないのか?」
「…じゃ、どうして」
「私が触れているのは君だ。そうさ、『君』だろう?自分で考えたまえ。
触れられているのは、誰なのか」

言い含めるように囁く。闇に溶けた白い喉が、ごくりと鳴った。

そうしていくらもたたぬうちに。ああ、といって、
せつらはその閉じられた瞼から雫の宝石をこぼした。
そっとメフィストの首にかけた手を引く。
舌先で雫をルビーに変えてしまうと、メフィストはそっとガラス製の机にそれをおき、
せつらの肩先に顔を埋めた。

薔薇の花びらのような香りが立ち込め、せつらの声が甘くなり始める頃に、
メフィストは気が付いたように突然言った。

「血の、沸騰か」
「…っ、そう…、ねぇ、それって、どんなカンジなの…?」

あまり汗ばみもしない背中を抱きなおし、せつらの耳元にそっと囁きかけた。

「君のことを思うときはいつも、そうさ」
「――――ぼ、く…」

君に沸騰する血なんてあるの―――後はもう、言葉にならなかった。
静かに月が昇っていく。闇が降りかかり、涙製のルビーはますます輝きを増した。
『世界中の誰もが、時を止めたいと願うような』
いっそ清い儀式のようなその行為は、甘くからだの中心を犯していくようだった。

後から後からこぼれては床へと落ちてゆく宝石を見つめながら、
ばら色にその肢体を震わせて、せつらはゆっくりと呟いた。
ああ、こんなカンジ――――…
その感情の名前も、意味も、知りたくはなかった。

…今日だけだ、こんなのは。

時に心臓のあたりをちくりと刺激するその痛みに耐え、薔薇の香りに包まれて微笑すると、
メフィストも同じ笑みを浮かべる。


二人は闇に呑まれていた。
――――ふと目を上げると、闇の向こうに月が紅く、浮かんでいる。
せつらはその繊細な眉をひそめると、自らが生んだ赤い石にそっと口付けを落とした。





2002年4月7日



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